親愛なるB 様

拝啓、いかがお過ごしでしょうか。
といっても、お顔を拝見したのは、
一度くらいしかないく、
また私の顔を覚えていらっしゃるとも思えず、
どちらも街で出会っても、相手が認識できないと
思いますから、まあ初対面と同じなので、
はじめましてと申し上げるべきかもしれません。


最近、お噂をお聞きしました。
まあ、お元気そうなので、なによりだと、
心から思っています。


そもそも私とあなたとは、敵どうしなのですが、
いまでは、あなたの一時期の惨めな境遇を知り、
いまでは、同情こそすれ、
怒りの気持ちなどまったくありません。


以前、私があなたの英語の文章に対して、
こういう考え方は、どうだろうかと疑問を呈したのですが、
とはいえレヴュー記事のなかの数行でコメントしただけなのですが、
日本語が読めないあなたが、その記事に激怒されて
反論を載せろと、学会の会誌に要求してきました。


数行の日本語のコメントに対して、
数ページの反論です。そもそも、最初の英語の文章の
ありふれたくだらなさを知っていましたから、
反論など読んでいませんが、
そうした異常事態
くりかえしますが、日本語で数行のコメントに対して
日本語が読めないあなたが、数ページに渡る英語の文章を
書いてきた、それを掲載したという学会も学会ですし、
私はそのバカさ加減にあきれ果てて、
退会しました。


実際には、この問題に対して、
私は当時のシェイクスピア学会のT会長(高橋会長ではない)に、
私の文章というよりもコメントをどう思うかと電話で
尋ねたことがあります。


私が予想した答は3つ。


1)君の意見ももっともだと思うが、周りがうるさくて、
私としても、擁護しにくくなっているとういうもの。
もし、この答が帰って来たら、
たぶん、嘘だが、私のようなチンピラに、ここまで気を使ってくれるのなら、
まあ折れてもいいというか、私のほうから謝罪してもいいと思っていた。


2)君の意見には全面的に反対だ。君は間違っている。
というはっきりした回答があった場合、
自分の意見を変えるつもりはないが、
私のようなチンピラに、
明確に反対意見を語ってもらって、それはそれでありがたく
受け取ろうと考えていた。


3)君の意見に全面的に賛成する。一緒に戦おう。
という意見は、全然期待しなかったが、
もし、それこそ嘘でもそう言ってくれるなら、
この人には、死ぬまでついていこうと忠誠を誓おうと
本気で考えていた。


で、帰ってきた答は、上記のどれだと思いますか。
どれでもなく。ただの無言でした。
これにはあきれ果て、怒りを感じてた私は
退会を申し出たのです。


いやあ、この会長の答いかんでは
一生ついていくつもりだったのですが、
いまでは軽蔑心しかいだいていない。


ただそれでも、あるとき、この会長が
学会の金銭を着服したという噂を、私の耳に吹き込んだ
会員がいたとき、
私はその噂を絶対にありえない虚偽として
一笑に付しました。


私も別の学会の会長をしたことがあるけれども、
会長は学会の金を絶対に着服できない。
漢字検定の財団法人でも、会長あるいは理事長は
直接、着服するようなまねはしない。
ましてや、シェイクスピア学会に、着服できるような
金すらないのだから
ひどい噂をたてるものだと、
むしろ怒りを感じたくらいだった。、


まあ、それはともかく、
シェイクスピア学会のことは、
その後、どうなったのか、よくわからないのですが、
たぶん、あなたは、自分にくだらないコメントで文句をいってくる
くだらないクズ日本人を蹴散らして大喜びだったのかもしれません。


あながた蹴散らした日本人(つまりこの私ですが)は、
将来の会長候補でもあった、有望な日本人であったことも、
あなたの自尊心をいたくくすぐったかもしれません。


でも、それからあなたの自滅というか
自壊がはじまったのです。
あなたの周りには、たとえば
そんなチンピラ研究者が日本語で書いていることなんか、
英米人は誰も読まないのだし、
大人の反応をしてほうっておいたらどうですかという
日本人の友人たちは誰もいなかったということでしょう。
そうした友人たちは、あなたの困窮に見てみぬふりをし、
またあなたの被害にあった人たちをも無視したのです。
ほんとうの人間のくずは、
あなたではなくて、
あなたの日本人の友人たちでしょう。


彼らは、あなたの好き放題にさせたことでも
責任があります。
あなたの日本人の友人たちは、
MとかSのことですが、
あるいはGといった英国人もあなたの知り合いでしたよね、
あなたをおだてるだけ、おだておいて、
結局、野放しにしたのですよね。
そのため自壊をはやめた。


あなたも離婚されたり、住む家を失ったりして、
たいへんなことがあったようですが、
周囲からは「アル中」という噂もあったのですが
(真偽は定かではありません。たぶん酒好きでも
アルコール依存症ではなかったと思いますが)
授業をしなくなったりして、かなり生活が
荒れていたのですよね。


ただし、よそ目でみると、なにか生活あるいは研究
あるいは人生上の問題にぶつかり、
苦悩していて、それが周囲への迷惑行為になっている
ということですが、
あなた自身にしてみれば、
たしかに、自分に歯向かってくる
つまり授業をしてくれと、要求してくる、
バカな大学当局やその関係者がいるとしても、
総じて、自由な生活を満喫し、
反対者をけちらし、友人たちからはおだてられて
けっこう自由に
負けなしの人生、
全戦全勝の人生を気楽に送ったといえるかもしれません。


自壊などしていなくて、全戦全勝の人生でした。
失礼しました。


そう、たとえ関係者が嘆いても、
関係者の怒りは、最終的に
あなたの日本人の無責任な友人たちに向いたのですし、
あなたは傷ついていないのかもしれません。


いまでは東南アジアの女性と知りありとなり、
日本を去られたようですが、
東南アジアでも、第二、第三の人生を送られることを
心から祈っています。


で、私はというと、あなたのせいでシェイクスピア学会を
辞めたことで、
学会活動に割く時間がなくなったので、時間的余裕ができました。
その頃は、私の母がガンになり、闘病生活に入ったので、
私一人で、介護をしていたため、
実は、時間がいくらあっても足らなかった。
そんなとき、学会活動に割く時間がなくなったのは
ほんとうに助かりました。
また母が死んだあとも、
学会活動で忙殺されることはなくなったので、
たんなるシェイクスピア学者ではない
なにかになったわけではないですが、
それになる途上に、いまもいる、
そんな道を開くことができました。


私の基盤は、
シェイクスピア研究なので、
時々、講演を頼まれたら、
シェイクスピア関連の話をするのですが、
世間では、私はたんなるシェイクスピア学者ではないので、
いろいろと要求がきつい。


そんな内容の話なら、シェイクスピア学者の**でも言えるし、
そちらにたのむだとか、
**でも言えるようなことの、その先をいくのは、
偉いというようにほめられるのは、
嬉しいのですが、同時に厳しい。


シェイクスピア研究者の私は、ふつうのシェイクスピア学者が
言うようなことしかいえないし、また、そういうことなら
いくらでも言えるのですが、
マクベスの台詞をもじれば、
シェイクスピア学者が語るようなことは、
いくらでも語ることができるが、
それ以上のことを語れというのは
至難の業ではないのですが、
それを要求され、その要求の厳しさに
いつも悲鳴をあげている次第です。


まあ、そんなことはどうでもいいかもしれませんが、
あなたのおかげで、私も道を踏み外して、
自分を広げることができた。
幸福なる転落でしょうか。
ですから、あなたのことを
ほんとうに、なにひとつ恨んでいない。


いや、転落したあなたをみて、ほくそ笑んでいるだけだと
世間では私の悪口をいうかもしれませんが、
そんなことはありません。
私も、あなたの転落が、幸福な転落であることを
祈っていますし、実際、それは幸福な転落であったことは
すでに立証されているようです。


あなたが、東南アジアで、楽しく余生をすごされることを、祈るばりです。

敬具

Excitable Image 2

先の11月25日のExcitable Imageでは、ユダヤ人ギャグであって、差別的になっているので、たとえば宇宙人の母親と子供として考えてみる。この母子はどうみても宇宙人なのだが、子供のほうは自分が地球人だと思い込んでいて、母親から、おまえはほんとうは宇宙人なのだよと聞かされる(先の文脈では、そういうイメージを見せられる)、そして驚くというのが、この小話のポイントということになろう。


だったら、勘違いというか、何も知らないのか、あるいは逃げているかもしれない子供に対して、私も、その母親のように、真の姿を示してもいい、そんな状況がある。宇宙人が誰なのか知らない宇宙人の子供を鏡の前に立たせ、よくみてごらん、ここに映っているあなたが宇宙人なのですよ。と。


ある大学(本務校ではないが、でも状況は同じかもしれない)で、批評理論の授業をすると、当然、そのレパートリーの中には、「クィア理論」も入ってくる。すると、学生・院生たちは、その回に限って、それまでの知っているぞという態度(知ったかぶりとは違う)から、急に、無垢と無知の態度に変わってしまう。つまり、私は何も知りません。これまで興味を持つこともなかったので、いろいろ教えてくださいという態度になる。


つまり、私が、なにか人跡未踏の奥地に暮らしている民族について入手しがたい貴重な情報をもっているので、その一端でも知らせて欲しいという態度になる。たしかにいまでもこの地球上には知られざる民族はあるかもしれないが、私が話しているのは、そうした特殊な民族のことではなく、ゲイとかレズビアンの話である。もちろんカミングアウトしているゲイやレズビアンの人たちのコアな生活は未知の部分、神秘的な部分は多い。しかし、そうしたエスノメソドロジーの話をするのではなく、批評理論におけるクィア理論についてであり、かりにクィア的欲望があるとして、それは、べつに珍しいものでもなんでもなく、誰にであるものなのだ。つまり、外国人、異民族、異人種の話をしているのではないのである。


たとえていうのなら、性、性的欲望、性現象というような観点から文学や文化を考えて見ましょうというときに、先生、性欲ってなんですか。よくわからないので教えてくれませんかと、皮肉や嫌がらせでなく、まじめに質問してくるようなもので、なんだ、そのかまととぶりは(カマトトという表現は今ではもう使わないかもしれないが)、なんだそのぶりっ子ぶりは(ぶりっ子という言葉も今では使わないかもしれないが)と、いいたくなるのは当然である。同じことが、クィア関係だと堂々とまかりとおる。先生、私はクィア的欲望については全く知りません。どうか教えてくださいと、冗談かと思ったら、本気で質問してくるのである。


こんとき、それこそ11月25日のエドマンド・ブランデスの母親ではないが、「全員、鏡の前に立って、そして目を閉じて、これからクィアな人たちを皆さんの前に出現させます。ゆっくり目を見開いて、鏡に映っているクィアな人たちをじっくり見て御覧なさい、ちなみに、私もクィアです」と言ってやりたくなる。


いまどきオナニーをして罪悪感を抱く人はいないだろうが、西洋人がかつてオナニーに罪悪感を抱いた頃、自分のなかに同性に対する欲望のようなものを見出したとき、彼らは、どうしようもなくあわてふためいた。これをホモセクシュアル・パニックというのだが、オナニーに関する罪悪感はいまや消滅したとしても、ホモセクシュアル・パニックというのは、存在しているのはどうしてなのだろう。べつに学生全員が同性愛者になれということではない。そうではなくて、同性愛的なものを理解している、共感できる、同性愛に関心があるということだけでも、変な目でみられてしまうという恐れがあるのだろう。とにかく距離をおきたい。自分のなかに同性愛的欲望があるなどとはもってのほかである。同性愛者の友達なんかいない……。完全に、人種差別、民族差別の構造を反復している。恥を知れといってやりたい。


ほんとうにそんな学生・院生は恥を知るべきである。皆、同性愛者になれといっているのではない。私のようなろくな業績もない人間、似非学者ともいえないような人間が学問を云々する資格はないかもしれないが、学問をしていることは事実で、学問の重さについても、よく知っている。


古典的な学問の世界では、たとえどのようなイデオロギー、思想、信条でも、また出自が何であれ、学問対象に対しては冷静沈着に真摯に接近し考察すべきであって、学問対象を、社会的偏見によって遠ざけることは、研究者の風上にも置けない許しがたい行為なのである。したがって学問の世界には、好き嫌いはあってはならず、イデオロギー闘争もない(実際には、あるのだが、それはあるべき姿ではない)。学問の世界においては、現実社会にはない稀有な平等と自由とが達成されるのである。平等と自由が嫌いな人間は、その数は限りなく多いが、少なくとも研究者になれないし、もし研究者になっていれば、恥を知るべきなのである。

女たらしとしての芸術家の誕生

本日の映画会は、松井久子監督『レオニー』。驚くほどの重厚な歴史映画になっていて、『ユキエ』から『折り梅』へと続く映画製作は、ここにいたって、完成の域に達したのではなかという気がする。アルツハイマー病を扱った『ユキエ』は、感動的だったけれども、アメリカで製作したということと、もうひとつの問題、つまり戦後、米兵と結婚してアメリカに渡った女性たちの歴史という面が、触れられてはいても、個人的なものに終始して、社会的歴史的広がりを欠いているように思われた。次の『折り梅』では、アルツハイマー病と介護や家族の問題を、正面からとらえていて、しかもいっさい妥協することなく、冷厳な現実をつきつけながら、そこに救いを見出す感動的な映画で、アルツハイマー病についての映画としては、本人のなかでも、また他の映画製作者にとっても、これ以上のものはあらわれないだろうと思われる。「折り梅」の比喩には、ほんとうに目を見開かされた*1


『折り梅』を見て、私は、これまでアルツハイマー病そのものか、それに類似した症状を示す、まあ、もうろくした老人たちとの付き合い方が、根本的にまちがっていたこと、正直言って、もう取り返しのつかない過ちを犯していたことを知って慄然とした。多くの人に見てもらいたい映画だし、私などは、なぜ自分はやさしくなれなかったのかを悔やむことになるが、まだチャンスのある人は、今後の老人との接し方として大いに参考にして欲しい。私はもう介護する人間がいなくなり、こちらが介護される側になってしまったので、チャンスはなくなったので。


『折り梅』のあと、監督は、もう一度アメリカにもどって、最初の作品で撮れなかったものをとった。『ユキエ』のとき倍賞美津子の夫役のボー・スベンソンは、本来ならしぶいいい俳優なのだが、日本人俳優やスタッフとの仕事とで戸惑いがあったかもしれず、それが演技にも出ている。まるでそれはテレビでの英会話の番組で、講師がへたな寸劇をしているよう、そんなふうにしかみえなかった。英会話の講師の寸劇が下手でも、それはしかたがない。でも役者となると問題で、やはり日本側とアメリカ側とのすりあわせがうまくいかなかったのではという気もしてくる(もっとも実際には和気あいあいと仕事が進んでいたかもしれないのだが、結果からみての判断である)。ただし『ユキエ』のなかに出てくるプラモデルは、P-80で、あれは、倍賞美津子の夫ボー・スベンソンが朝鮮戦争の時に搭乗していた「シューティング・スター」だとわかる人間は、そうたくさんはいないだろうと、飛行機ファンの私は、自己満足の境地にいるのだが。


『レオニー』にもどると、月一の映画会ではこの映画が選ばれた。そして重厚な日米合作映画で、満足度は高い。思わず泣いてしまったという会のメンバーが二人いて、たしかに泣かせるというよりも、泣きどころは多い映画だった気もするが、どこで泣いたのかと聞いたら、大地康雄扮する大工の棟梁が、レオニーの子供(イサム・ノグチだが)に、木にカンナをかけるやりかたを教えるシーンだという。


え、そこで、なぜ。たしかに、新築の家を建てているとき、大工仕事をレオニーの子供がずっとみている。棟梁が、おまえもやってみるかとカンナを持たせると、うまくいかない。それはこうするのだと手ほどきすると、イサム・ノグチは上達する。そして彼がアメリカに渡るときには、棟梁からもらった日本の大工道具をもっていくのである。棟梁とイサムとの場面は、いい場面であることはまちがいない。でも、なぜ涙が。


いい場面だけれども、ちょっと情緒不安定じゃないのという失礼な発言もあったが(私の不適切発言だが)、しかし、よく話を聞いてみると、彼女は、イサム・ノグチの絶大なファンであるという。イサム・ノグチの伝記映画でもあるこの映画で、まさに棟梁と少年との出会いが、芸術家の誕生のきっかけになったのかもしれず、まさに芸術家誕生の創世神話に立ち会ったという感動から、思わず涙ぐんでしまったという。べつに悲しいとか、そういうわけではない、と。


なるほど、先の大工道具の件もふくめて、これはたしかに、芸術家誕生の瞬間だったといえるだろう。と、ここで男性会員は、それはよくわかったのだけれど、あの場面で、大地康雄扮する棟梁がイサム・ノグチ少年に何て言ったか覚えていますかと質問した。え、よく覚えていないと、彼女はいうが、男性会員のみならず、私も、ほかの女性会員もよく覚えていた。


大工の棟梁は、大工道具をつかって木を加工するのは、女あるいは女の体を扱うのと同じだと言ったのであり、その台詞に、私はかなり引いてしまったのだが、私よりももっと引いてしまう観客がいてもおかしくないと思った。昔の話とはいえ、あんな古臭い男女間それも男性中心の観点は、ないぞと、怒りすら覚えたのだが、おそらくそれは監督の意図するところだろうという結論に、私たちは達した。


つまり大工の棟梁と少年の場面は印象的だし、芸術家誕生の瞬間あるいは芸術遍歴の始まりの瞬間なのだが、同時に、少年は、棟梁から、芸術の素材は女性であり、そこから芸術を生み出すのが芸術家の手腕であるというジェンダー化された教えを受けたのであり、まさにこの瞬間こそが、イサム・ノグチというWomanizer誕生の瞬間、あるいは彼の女性遍歴の始まりの瞬間だったのだ。


映画のこの瞬間は、芸術家とプレボーイの二人を誕生させていたのである。なるほどそう思うと、これはすごいことかもしれないと思った。映画ではイサム・ノグチの女性遍歴は描かれていないが、それをこの棟梁と少年の場面で匂わせているとは、憎い演出いえるだろう。ちなみに、この場面で泣いてしまった会員は、棟梁の女性蔑視的発言は覚えていなかったのも、なにか意味があるのだろうか。


では母親レオニーの存在はどうなるのだろうか。映画ではイサム・ノグチの女性遍歴は匂わせるだけで、はっきり提示されないのだから、何もいえないのだが、イサム・ノグチの華麗なる女性遍歴は、本人の魅力もさりながら(実際にドウス昌代の伝記は、女性にとってイサム・ノグチ本人がどのくらい魅力的だったのかということを探っているのだが)、同時に母親の存在も大きいだろう。


いうまでもなく一人の女性に満足しないプレイボーイは、どの女性にも満足しない。そして女性遍歴をつづけるのだが、それは、どの女性も母親の代役であり、同時に、どの女性も彼の母親になれないために棄却されるのである。プレイボーイにとって究極の女性は母親である。その母親の代理を求めてつぎつぎと女性を変えてゆくが、どの女性も母親に比べたらどこか異なるか欠陥があるのである。


となると芸術家/プレイボーイとしてのイサム・ノグチを産んだのは、まさに血縁的母親であるレオニーでもあり、また、究極の女性として、イサム・ノグチの女性遍歴の契機ともなり不可能な到達点ともなった――まさにアルパにしてオメガ――のもレオニーであって、レオニーの伝記映画でもあるこの映画は、イサム・ノグチの伝記映画と相補的関係にある。どちらがネガでポジかは解釈によるのだろうが。


***
あとレオニー役のエミリー・モーティマーEmily Mortimer(1971-)について。不思議な魅力をもった女優で、気づいたら、彼女が出演している映画は、かなりみていることがわかった。そのため今回の役どころは、彼女が過去に出演した、映画の役と重なるところもあり、既視感がある。たとえば母子家庭で、頭のいい息子と暮らし、別れた夫から逃れて独り立ちをしようとしてる女性といえば『DearフランキーDear Frankie (2004)彼女ではないか。


レオニーの娘は、いったい誰の子供なのか。つまりイサム・ノグチの妹の父親は、最後まで誰なのか映画のなかではあかされない。伝記的にもわかっていないようだが、そういえば、子供のできない体であることが判明した夫が、いまの娘は、いったい誰の子供なのかと悩む映画があった。父親のわからない娘の母親役をエミリー・モーティマーが演じていた。『カオス・セオリー』(2007*2は、『マッチ・ポイント』でエミリー・モーティマーと共演している。あの映画では、地味系の女性としての役どころで、ヨハンセンの引き立てやくだったが、彼女は『猟人日記Young Adamでも地味な女として、ユアン・マクレガーに殺されていた――ポスターとかDVDのジャケットで、ユアン・マクレガーの足元に全裸で死体として横たわっているのがエミリー・モーティマーである。


と同時に、彼女は、強くて派手な女を演ずることも多く、『キッド』Kid(2000)がそうだが、ほかにも51stState(日本語タイトルは忘れた) (2001)では、ロバート・カーライルの恋人で殺し屋という、ぶっとんだ役もしていたが、2000年代後半になると地味な、重厚な役どころにシフトしたのかもしれない。『レオニー』はそんな彼女の集大成といったところもある。

*1:あと映画の舞台が愛知県豊明市であることも、つまりみんな名古屋弁を話していることも、私にとっては親近感が沸く要素だったが。

*2:日本未公開のこの映画は、日本版DVDが出ていて、簡単にレンタル、購入できる。)))である。夫役のライアン・レイノルズが、熱演していて、誰の子供かわからない娘に、最後に救われるという、皮肉っぽいが感動的な映画であった。 ライアン・レイノルズといえば、昨年『あなたは私のムコになる』でサンドラ・ブロックと共演したばかりだが、比較的最近、『[リミット]』Buriedでの一人芝居をみたばかりだが、彼が結婚していたスカーレット・ヨハンセン((ライアン・レイノルズは、2010年12月にスカーレット・ヨハンセンとの結婚を解消した。

行きずりの映画


忘れないうちに、映画『行きずりの街』の話を。死ぬまでに一度は、志水辰夫の文体で、書いてみたいと思っている。小説を書いたら、ただのものまねだけれども、論文なら、面白のではないか。一生に一度は書いてみたい。私の夢である。この記事も、シミタツという略式は嫌いなのだが、あえて使うと、シミタツ節で、書いてみようと直前まで思って、やめた。またの機会を待つことにして。小説と映画とは表現方法が異なるわけで、志水辰夫の文体の映画的等価物は存在しないかもしれないが、それでも『行きずりの街』の映画化作品は、それなりに期待してはいた。阪本順治監督だし、はずれということはないだろうと、考えていた。


ちなみに今月は、中学・高校の学園祭を見学させてもらった。文化祭の展示のために、机と椅子をとりはらって、板の間のフロアだけになった教室は、ただっ広いという印象はなく、むしろ、こんなに狭いところに、40名くらいの生徒がひしめき合い、先生が授業をしているのかという、せせこましい印象を受けた。机と椅子がなくなった教室は貧相なのだ。文化祭の各クラブの展示は、そこをいろいろと飾り立てないと、印象がわるくなる。


そんな椅子と机のない教室。そしていまでは取り壊されようとしている校舎の各教室の黒板には、そこで学んだ生徒たちが、いろいろな思いを寄せ書き風に色チョークでびっしりと書きこんでいる。それはそれでリアリティがあるのだが、しかし、舞台あるいは舞台背景として、これほど、貧相で似つかわしくない場所ないだろう。そこでの大立ち回り、アクションシーンが、全体のクライマックスになるとは(もちろん原作の設定ではない)。


そもそも、椅子と机のない教室でのアクション・シーン(繰り返すが原作にはそんなものはない)を決定したとき、ここでのアクションは、違和感というよりの貧相さが目立ってしまい、とにかくダメだと思わなかったのだろうか。あるいは悪役の石橋蓮司の最後の死に方。黒板に後頭部を強打して、黒板に血のあとを残して倒れこむ。しかし、その後、息を吹き返し、よろよろと廊下にでて、主役の仲村トオルに悪態をつくなかで、頭を強打していたことを思い出したかのように頭を抱えて倒れこんで死ぬ。え、なにこのダブルテイクまがいの死に方は。


原作は、しぶい作品だが、しかし映画に比べると、数倍、派手である。いっぽう映画のほうは、しぶすぎて、あたかも映画の制作費のほとんどが出演料でなくなり、乏しい制作費で作らねばならなかった貧相な映画という印象なのだ。映画の終わったあと、映画館の外へ出たら、とくに繁華街というわけでもない街が、人通りの少ない深夜の2時か3時頃ではないかと一瞬思えてきたほどの寂寥感にさいなまれた。実際の時刻は、午後7時前で、にぎやかな街だったが。


しぶくなりすぎて、貧相になったのは、残念でならない。もちろん俳優たちの演技は、一見の価値はあろう。仲村トオルは中年の負け犬オヤジ感がよく出ていたし、窪塚洋介は、原作の、昔風の言い方をすればインテリ・ヤクザ風の男を、原作をしのぐエキセントリシティで、『東京島』のときと同じく、怪演が際立っていたし、小西真奈美は、変な魅力があったし(私は強い性格の役柄の彼女が好きだ)、佐藤江梨は、原作では重要な役割だったが、え、彼女がと一瞬思ったものの、原作とは異なり、重要性が大幅というよりも、まったくなくなっていた。


まあ豪華な俳優陣とは対照的に、映画は、原作のしぶいけれどもけっこう派手なアクションとサスペンスとは異なり(元女子高の国語教師、現在塾講師の主人公では、派手なアクションは成立しにくいのだが、それをやってしまう力技が原作にあったのだが)、お父さんが、別れた女房と、よりを戻し、家出した娘(義娘)を探し当てるというファミリー・テイルに縮小していた。最後の終わりの静止画像が、すべてを物語っていたのだが。まあ、テレビの2時間ドラマでじゅうぶんかもしれない。最後のエンディングテーマの入りかたも、テレビ風だったし。

Excitable Image

20世紀初頭にヨーロッパで活躍した批評家にエドマンド・ブランデスという人物がいる。いまではあまり読まれていないと思うのだが、当時は絶大な人気と知名度を誇った人物である。そのブランデスが、子供の頃の思い出を書いている。


ある日、エドマンド坊やは、母親に、質問をした。「ねえ、ママ、学校でみんながユダヤ人の話をしていて、ユダヤ人が怖いなんていっているけれど、ユダヤ人って何?」「あら坊や、ユダヤ人を知らないの。だったら、これから見せてあげるわ」「え、ママ、ユダヤ人がこれから見れるの?わーい、うれしいな、わくわく」するとママはエドマンド坊やの手をとって居間につれていきました。そうして坊やに、「じゃあ、目をしっかり閉じて」「うん、ママ、閉じたよ」。それを聞くとママは、坊やを抱きかかえて大きな鏡の前に立ちました。
おもむろにママはいいました


「さあ、坊や、目を開けて。いま坊やの目の前にいる人、これがユダヤ人んですよ。ちなみにママもユダヤ人ですよ」これを聞くとエドマンド坊やはぎゃーと叫んで失神したそうである。


このエピソードを語っているエドマンド・ブランデスが、ユダヤ人であるからいいようなもの、下手をするととんでもないユダヤ人差別エピソードかもしれない。あるいはユダヤ人ならこういう自虐的なエピソードを好むのかもしれないが、このエピソード、さらに類似のエピソードから、いろいろ考えることができるが、要は、自分を発見することの衝撃であろう。


私自身、似たような経験をしたことがある。イギリスの町を歩いていたとき、ふと、アジア人らしき男の姿が目に入った。じろじろ見たわけではないが、貧相な小太りのアジア人で、日本人という可能性もあったが、知らん顔をしてやりすごそうとしたところ、むこうもこちらに歩いてくる。そしてかなり距離が縮まった瞬間、私は、わかったのだ。それはショーウィンドーに映った私の姿だったということを。


そんなバカなと思うかもしれないが、類似の経験は、外国で暮らしたことのある方なら、よくご存知だろう。私の場合は白人にまじってのことだったが、短期の旅行ならそんなことはないだろうが、すこし長く暮らすと、自分がアジア人、日本人であることを忘れてしまって、なんだが自分を白人と思い込んでしまう。だからアジア人としての自分の姿をみつけも、自分だとわからない。


とはいえ、私の経験はそれで終わってしまって、ほんとうに白人社会になじんでいるわけではなかったのに、真相は、その逆だったのに、なぜか自分を白人に思ってしまっていた自分を反省した。家族の一員として育てられるペットが、自分を人間と思い込むようなものだった。


しかし、ここから思想的発展を遂げた人物がいる。フランツ・ファノンである。フランスの植民地下のマルチニック島で、フランスのエリート植民地教育をうけたファノンは、フランスに留学したとき、バスだったかなんだかった忘れたが、交通機関に乗っていたとき、前の席に座っていたフランス人母子が、ファンノンをみて、男の子だったか女の子だったか忘れたが、「黒人怖い」といって泣き出した。


実は、自分を白人のフランス人だと思い込んでいた(フランスのエリート教育を受けたからら)ファノンは、この経験から衝撃を受ける。そしてそこから思想が生まれた。みずからのイメージが、どうもおぞましいらしいということを発見した瞬間こそ、ファノンにとって、植民地人の心理、植民地文化や社会のありかたについて考えるきっかけになった。この項つづく。

なぜ学校を休ませない


群馬県桐生市の小学6年生、上村明子さんがいじめを苦に自殺した事件が、まだ尾を引いている。学校長が、その子の親を訪問したというが、いじめの報告については何も語らなかったという。


こういう痛ましい事件が報道されるたびに思うのだが、いじめられているという訴えがあったとき、なぜ、親は、あるいは周囲は、登校を止めさせなかったのか。たとえささいないじめでも、子供にとっては、たいへんな苦痛だろうし、そうしたいじめがある限り、子供を休ませるという、ごく常識的な判断を、なぜ、親も、周囲もできなかったのか。


べつに子供を自殺で失った親を責めるつもりはまったくない。責められるべきは、いじめをしていた子供たちであり、彼らは衝動的にせよ、意図的にせよ、あるいは習慣的にせよ、いじめに加わった以上、最低の人間、あるいは人間以下の存在であり、いじめの加害者は、それこそ、考えられるあらゆる過酷な刑罰を与えられてしかるべき、人間の屑、人間の恥でしかないのであって、彼らを放置した学校側も、同罪である。


だからそんな人間の屑たちに、屑の学校で、殺されるのは、あまりにもひどい。だから、いじめが発生したら、とにかく学校を休ませること。それが子供を苦痛から守り、子供を殺されないための最善の手段である。


実際のところ、理由は何であれ、不登校の小学生がやまのようにいるというこのご時勢に、なにも、いじめられている子供を、屑人間、屑生徒、屑教師のいる学校に登校させる必要などない。親や周囲を責めようと言うのではない。ただ、学校を休むのは罪悪だとか、多少、いやなことがあったくらいで学校を休むのはまちがっているという、それこそまちがった考え方に染まっている、いや洗脳されている悲劇をここで問いたいのである。


自殺した女の子は、学校へ行くことの苦痛に耐えられなかったから自殺したのだろう。外国人の母親も働きに出ていたというから、女の子を一日中家に置いておくことはできないと判断したのかもしれないが、病気で寝込んでいるわけではなく、小学6年生だったら、ふつうの子ならひとりで留守番できる。一日中、家で勉強させてもいいし、のんびり休ませてもいい。


もしそんなことをしたら学校の勉強が遅れると考えるバカがいたら、とっとと首をつって死ね。小学校6年生の勉強など、親が教えればいい。いや長期欠席なら、卒業できないというかもしれないが、学校に一度も出てこない不良でも中学を卒業できる。小学校、中学校は、義務教育だから、出席不良でも卒業できるのである。義務教育だから、小学校・中学校は休ませると、たいへんなことになるというのは間違っている。義務教育ではない大学の場合、休みが多いと卒業できなくなる――わかっているのか、休んでばかりいる大学生よ。義務教育だから、全員、卒業できるのである。


逃げるのはよくない。立ち向かえというバカがいたら、トイレに首をつっこんで窒息死しろ。個人によるいじめは、いじめではない。集団で一人をいじめるのがいじめであり、この集団は結束が固く、狡猾で卑劣で、親ぐるみ地域ぐるみであるために、個人でたちむかうのはバカである。また勇気を出して個人でたちむかってくるのを、こうした屑どもの集団は待ち構え、そしてなぶりものにするのである。だから、間違っても、相手の罠に乗らないことである。不登校は逃げ出す卑怯者だという考え方は捨てるべきである。いじめるほうが卑怯者なのであって、不登校は、もっとも健全かつ最善の方策である。


いじめをする屑生徒と屑教師のいる屑学校に行くことは、自殺行為にほかならない。自殺した彼女は、登校していたことによって、結局、二度死ぬことになったのである。子供たちを屑から救うために、いじめがあったら、絶対に登校させてはいけない。

中間選挙

11月2日火曜日はアメリカでは中間選挙の投票日である。正直言って、私は気づいたのは、遅かったのだが、アメリカでは中間選挙も大統領選挙も、国政選挙は、火曜日にするということ、を。


皆が働いている火曜日に投票をする。となると、投票できない人も数多くでてくる。しかし、それが伝統となって今日まで来ている。メディアもそのことを強調すべきだろう。仕事が休みの土曜日か日曜日ではなく、火曜日に投票をするのは、投票者から投票機会を限りなく奪うものだ。


そんなくそ民主主義の国が、世界の民主化をとなえ、他国の民主主義を批判する。おまえだけに批判されたくはなかったし、おまえに批判する権利も立場もないぞ。