違法攻撃


あとから知ったのだが、大阪の道頓堀のたこ焼店は、自発的に撤去したようで、行政代執行はしなくてすんだとのことだった。私は大阪のことは全く知らないし、たこ焼店にしても、たんなんる違法占拠なのか、深いわけがあるのか、法的根拠はなくても、同情すべきところがあるのか、ないのか、全く何もわからないのだが、ただ、行政代執行まで、断固営業を続けるかと思ったら、自発的退去したことと、先の市職員が乱暴を働いたこととの間には、因果関係のようなものをみるのは私だけだろうか。


意図的なものであれ、意図的なものでないのであれ、頑強に抵抗を続ける相手に対して、違法攻撃をすることによって、相手を降伏させることはよくある。無関係な偶発事故を装っていることが多かったり、因果関係が特定できないことも多いとしても、結果から見ると、まるで仕組まれたような違法攻撃がおこなわれ、それが降伏のきっかけになる。


イラン・イラク戦争の当時、アメリカのイージス艦がイランのジェット旅客機をミサイルで打ち落としたことがあった。イージス艦による事故ということで、処理されたが、その後ほどなくしてイラン・イラク戦争は停戦した。


もっと大掛かりな例としては、明らかに戦争を終わらせるために仕組まれたとはいえ、違法性が大きすぎるのが、頑強に抵抗をつづける日本に対する原爆投下である。原爆をふたつ落とされてその後日本は無条件降伏する。


思いがけない違法攻撃が、まるで仕組まれたかのように、あるいは仕組まれて、物事の終結を促すことは、ほかにもいっぱい例があるにちがいない。あまり陰謀史観にとらわれるのは、よくないとしても、歴史の闇には、つまり違法攻撃をめぐる闇には、いつか歴史が明かりを投げかけてくれることを祈るばかりである。

灰皿と傘

灰皿で、テキーラを飲む、聖夜かな

海老蔵事件の真相は、闇の中、藪の中、だが、「灰皿でテキーラを飲む/飲ませる」というのは、社会の一部でごく普通に行われている儀式めいたものなのかどうか、全く何も知らないが、儀式ではなかったとしたら、そうした発想は、すくなくとも私の想像力の中に引き出しにはないので、ただただ、驚き、感服した。


そういう儀式があって、べつに珍しくもない発想だったのなら、それでもいいが、そうでなかったら、その発想はすごい。私には絶対にマネができない発想である。


大阪の道頓堀で、違法に屋台をかまえて営業しているたこ焼き屋に、市の経済局の職員が乱暴をはたらいたというニュースが流れた。開いた傘を振り回してしずくでたこ焼きそのもの、そして道具をずぶれにして、使い物にならなくしたという。不法に占拠している店側にも問題があろうが、事情がよくわからないので触れない。また、立ち退きを要求する担当でもなく、別の部署の職員が、酔ったいきおいとはいえ、迷惑をかけられているわけでもないのに、暴れるという、くそ正義感はどこからきたのかとも思うのだが、これも今回は無視。


私が驚いたのは、開いた傘を振り回して、傘のしずくで、商品や道具をだいなしにすること。私には絶対に不可能な発想である。つまり傘をもっていたら、それで店員をつつくとか、威嚇するということくらいは、私でも思いつく。しかし開いている傘を回転させて、水しぶきで商品や道具をだめにするという発想は、私にはどうしても不可能である。「灰皿でテキーラ」と同じような、衝撃を私は感じている。


これは、そういう嫌がらせのときの定番の行為なのだろうか。だとすれば、問題ないが、そうでなかったとしら、どこからそんな発想というか行為が生まれてくるのだろう。異文化に生きている外国人の行動を観察しているような違和感がある。

本日の映画2


オリジナルと今回の作品とのちがいは、オリジナルの建物の上下左右にいろいろな建物を付け足したり、あるいは、建物を簡略化してすっきりした形状にしたというよりも、比較的単純な建物の内部をいろいろ作りこんだというべきだろうか。あっさりした単純な建物のようにみえて、内部が迷路になっていたり、屈折があったりして、そのへんが面白いとでもいえようか。


まあオリジナルと違いすぎる設定も目に付くようになったのだが、続編なしの今回完結作品でもあるので、違いすぎても、影響はないというところだろう。ネタバレにならない程度に一例を。イスカンダルにあるという放射能除去装置は、地球側が勝手にこしらえた嘘ではあるが、同時に、それと同じようなものは実在したということになっている。これだけでも大きなネタバレなので、それ以上はなし。


どんな役でもこなせるというのは優れた俳優だが、どんな役をやっても、いつも同じというのがスターであって、吉永小百合とか木村拓也は、そういう意味で、まぎれもなく大スターである。


それでも今回木村拓也は、貫禄のようなものが出てきて、これはヤマトの映画であるとともに、木村拓也の映画でもある。ポスターに両者が並んでいるのは、たんに、主役が木村拓也であるという宣伝であるだけでなく、木村拓也のドラマであるという意味もかねているのだろう。ヤマトと木村のダブルトップということになる。


たとえば兵役を離れていた木村が、一般人ともに、ヤマトの乗組員に志願するのだが、すぐに採用されると、支給されるユニフォームを拒み、前から着ている自分用のユニフォームを着るところから、古巣に帰還のイメージが強くなり、さらに、復帰しただけでなく、いきなり攻撃班のチーフとして、乗組員に命令を下す立場になっているという、アットホーム感もあって、これが彼の貫禄づくりに貢献している。彼は、いわゆる「ベテラン」だったのだ。


と同時に、すでに述べたように、ヤマトの行動と、木村の行動とは重なる。埋もれていたヤマトが発進するイメージは、埋もれていた木村がヒーローになってゆく姿と重なる。どちらも、互いのメタファーとなっている。ヤマトの声が木村の声であり、木村の姿がヤマトの姿と重なる。こういうイメージの運動のなかで、映画はその最後を迎えることになる。その意味で、この映画のポスターのように、ヤマトと木村はダブルトップ。いやダブルでもある。


あと映画は、オリジナルの映画からひきずっているのかもしれないが、ヤマトではなく大和が存在していた太平洋戦争の時代の戦争がパラダイムになっているので、古い。映画『ヤマト』の冒頭などは、ソロモン海戦日本海海戦である(ソロモンといってもガンダムじゃないよ)。上下左右もない宇宙空間で、縦列の艦隊が、まるで洋上での戦いのように、同一平面上で平行になって撃ち合うのである。火星近くの宇宙空間なのに、ソロモン海戦あるいは日本海海戦とさほどかわらないのはなぜか。


観客の若者たちが感想を述べていたときに、第三艦橋が下に落ちるのはどうしてかと疑問を呈していて、なるほどと思った。ネット上ではすでに話題になっているのかもしれないが、宇宙空間でヤマトから切り離された第三艦橋が下に落ちてゆくというのは、たしかにおかしい。


あるいは最近『妖星ゴラス』のDVDを見た。池部亮氏死去にともなって、往年の名優が活躍する映画をみたくなって東宝のSF特撮映画『妖星ゴラス』をみた。リアルタイムでも、つまり子供頃映画館でみて、けっこう感動し、怖かったりもした映画は、さすがにいまかみたら特撮の部分が貧相すぎて、なつかしいけれどもリアリティはなかった。宇宙船など、外部はもう、どうしようもないのだが、内部にしても、もうちょっと作りこんだらどうかと思えるものだった。今回ヤマトでは、艦長や古代進らがいる艦橋が、異様に小さくて狭い。実際の大和もそのぐらないのかどうか知らないが、オリジナルの漫画やアニメでは、艦橋は、異様に大きいのに、今回の映画では異様にせせこましい。なぜなのか、よくわからないのだが、昭和の東宝特撮映画の宇宙船の貧相な内部を、あるいは昭和の特撮映画全般の貧相さを、ノスタルジーとともに再現する試みではないかとも思えてきた。今回のヤマトの艦橋だけは、昭和である。


今回森雪/黒木メイサ/スターバックは、オリジナルな設定とは異なり、強くたくましい女性なのだが、それがまるでお約束のように、映画のなかでは、だんだん弱くなり、ふつうの女の子になってしまうのは、常套的なものとはいえ、すこし残念。同じ脚本家でも、『K20』のときは、ふつうの金持ちのお嬢さん(松たか子)が、最後には、強い女性に変貌を遂げたのだったが。

本日の映画1


本日は土曜日だけれども大学で用件があり出かける。でかける前から嫌だったし、案の定、後味の悪い結果になった――少なくとも私にとっては。まあむしゃくしゃするので映画をというわけで、東宝シネマズのネットチケット購入した。こうしておけば、途中で気が変わって、そのまま帰宅するということもない。映画を見なくても、お金は返ってこないだから、貧乏性の私は映画に行くしかない。なお東宝シネマズのネットチケット購入は、手数料を取られないのがうれしい。近くのワーナー・マイカル・シネマズはネットでチケットを購入すると手数料をとられる。感じ悪すぎ*1


少し早めに言って自動発券機でチケットを購入。するとロビーから人がぞろぞろと出てくる。前の回の上映は終わったのかと思いつつ、用件があるので、ひとまず映画館を離れる。用件をすませて映画館のロビーにもどると、人がぞろぞれでて来る。出てくる人は、こちらのほうが多い。ということは、10分くらい前にみた、出てくる観客というのは、エンドクレジットが終わるまでおとなしく座っていないで、まっさきに出てきた先発隊だったのだ。そして先発隊には年配の観客が多い。年寄りが多い。どうして年寄りはエンドクレジットが終わる前に暗い館内から外へ出ようとするのだろうか。彼らの映画鑑賞人生には、エンドクレジットを見ないでささっと帰ることが義務になっているのだろうか、もしくはそれがかっこいいという美意識のようなものがあるのだろうか。不思議である。


さて映画について語るまえに簡単な覚書を。


1)黒木メイサ/森雪は、もとのアニメとイメージが大きく違うことで賛否両論があるようだが、黒木メイサの森雪は、『宇宙空母ギャラクティカ』(新シリーズ)のスターバックだと思った。『ギャラクティカ』の旧シリーズでは、空母から発進するヴァイパー機のパイロットであるスターバックは、テレビ版『Aチーム』でフェイスを演じていたダーク・ベネディクトだったが、それが新シリーズになった『宇宙空母ギャラクティカ』では、スターバックは女性になった。ヴァイパー・パイロットの女性は、まさに黒木メイサの森雪が受け継いだともいえるだろう。


2)戦艦大和には悲劇のイメージがつきまとう。しかし第二次大戦末期に、片道の燃料を積んで沖縄に特攻した戦艦大和は、もし途中で、アメリカ軍の艦載機の猛攻を受けて沈没しなかったら、どうなっていたかと考えると、空恐ろしくなる。つまりもし沖縄に到達したらどうしたのかというと、大和を海岸に座礁させる。そうしてその46センチ主砲で砲撃を加えるというもの。46センチ砲の威力は絶大なものがあっただろうが*2、巨大戦艦を、人工的に座礁させるのは至難の業だろう。船体が傾いて座礁したら、主砲も打てなくなるのではないか。到着しても傾いて座礁し、主砲も打てず、そのまま陸と空から猛攻撃をうける。無謀などころか、よくこんな作戦を考え付いたものだと思う。そもそも沖縄まで到達はできないと考えていたのではないか。最初から、作戦をすべて実行するつもりなどなかった。実行などありえなかった。


では沖縄に特攻して何を守ろうとしたのか。安物の特攻映画で示されるような、国民を守るため、愛する者を守るためなどではない。何を守るのか。海軍をである。海軍軍人が、ひいては日本の軍人が、いかに命をかけて戦ったのかを歴史に残すためである。負けることがわかっている戦いで、勝てる作戦などないのだが、しかし理屈のうえでも勝てる作戦、もしくは一矢を報いる作戦は必要なかった。無駄な作戦、負けるとわかっている作戦のほうが、意味があった。悪あがきはしない。いかにいさぎよく散っていたったかを、後世に示す。そのために作戦など考えていたら、いさぎよくない。勝とう、一矢を報いようとしたらいさぎよくない。国民を守ろうともしてない。ただいさぎよく散る。それが軍隊を守ろることにつながる。これを私たちはわすれてはならない。軍隊は、国民ではなく、みずからを、軍隊を守ることを最終的に優先するのである。


3)堤真一が映画の最初のほうに出て、その後すぐに死ぬ(みずからが艦長として指揮していた宇宙戦闘艦と運命をともにする)ことに、早すぎるとの違和感があるようだが、私にとって驚きなのは、堤真一が艦長として登場している戦闘艦の艦名が「ゆきかぜ(雪風)」であること。また沖田艦長の戦死した息子が乗艦していたのが「ふゆづき(冬月)」であるということ。「雪風」と「冬月」――ともに沖縄水上特攻のとき大和に随伴した駆逐艦で、沈没せずに帰還した、幸運(?)あるいは武運に恵まれた駆逐艦であった。ところが同じ艦名の宇宙戦艦が映画の冒頭であっけなく爆破されてしまうとは。


4)コスモゼロは前進翼である。宇宙を飛びまわるのに、前翼機も後退翼もないのだが、古代/木村の乗機コスモゼロは前進翼であることは興味深い。前進翼(たとえば5本の指で、人差し指と中指と薬指を伸ばして、そろえて閉じ、親指と小指を外に広げると、前進翼機のかたちになるので、そういう機体と考えていただければいい。前進翼後退翼の原理は基本的に同じである。二等辺三角形の頂点のほうに胴体がつくか(これが後退翼機になる)、二等辺三角形の底辺の端に胴体がつくか(これが前進翼機)のちがいである。空気抵抗の軽減は同じ。ただし前進翼機は空気抵抗によって翼がねじれてしまいやすいので、ねじれに強い材料が必要とされたが、複合材料の登場によって、それが可能になった。


そこまではよく、前進翼は21世紀の戦闘機の姿だと思われてきた。アメリカの近未来SF映画『ステルス』では、アメリカ海軍が開発したとされる架空のステルス戦闘機が登場するが、そのどれもが、前進翼で、今後、前進翼が、戦闘機の主流のかたちになるのだろう予感させるものがあった。実際、映画は驚異的なCGを使って、そんな戦闘機が実在するかのようにみせていた。その技術には圧倒された。


いまや前進翼機は未来の戦闘機の形ではなくなった。ステルス性が低いからだそうだ。なんという皮肉な結果に。『ステルス』という映画で活躍した前進翼機に、ステルス性がなかったとは。(つづく)

*1:その後、近くのワーナー・マイカル・シネマズはネットで手数料なしでチケットが購入できるサービスをはじめた。来年2月まで。

*2:結局、最後まで海軍は大和を46センチ砲の砲台とする発想から抜け出せなかった。巨大戦艦は、巨大砲のプラットフォームであって、巨艦が縦横無尽に活躍することは最初から計画になかったということだろう。

Shakespeare The 

残り少ない人生なので、昔読んだり、読んでいない演劇作品を読むために、ささやかな読書会をしているのだが、自分の本も確認、整理している。


以前、読書会で、シェイクスピアアダプテーション作品を読んでいたとき、Paula VogelのDesdemonaを扱う回があった。この作品はドイツの劇作家Wolfgang BauerのShakespeare the SaddistへのトリビュートだとVogel自身が語っている。それならどんな作品なのか読んでみたいと思っていたのだが、その作品の英訳は入手困難だった。と今年の前半思い込んでいたが、今回、その戯曲が自分の本棚にあったことを、あらためて発見。当然ながら買ったけれど読んでいない。でも注文を出して勝った形跡がある。


ああ、残り少ない人生。ぼけたくはないぞ。というか完全に物忘れがひどくぼけている。


なお、演劇研究会のメンバーのひとりから俳句を示してもらった。俳句と言っても川柳みたい、いやただの冗談俳句なので、本人の作として発表することはないから、ここで匿名作品として発表したい

灰皿で テキーラを飲む 聖夜かな

「灰皿で」というのが5音なのが不気味である。

Teddy/Eddie

残り少ない人生なので、昔読んだり、読んでいない演劇作品を読むために、ささやかな読書会をしている。参加者が企画を持ち寄るものなので、毎回趣向は違うが、いずれも演劇関係なので、私にとっては有益かつ楽しい。


そうした読書会・研究会のなかでハロルド・ピンターの『帰郷』The Homecomigを最近読んだ。この芝居のなかで、細かなことを省くが、テディTeddyと呼ばれているノース・ロンドン出身で、いまではアメリカの大学で哲学を教えている人物が登場する。彼は周りからも、また妻のルースRuthからも、Teddyと呼ばれているが、劇の最後、妻との別れ際に、妻からEddieと呼ばれるのである。


喜志哲雄氏は、このテディからエディへの呼び方の変更を重視している。それをどう解釈するかは別にして、鋭い着眼であることはいうまでもない。ところが現在、ふつうに流通している小田島雄志訳では「テディ」になっている。つまりそれまで「テディ」と呼ばれ続けている人物が、ここでいきなり「エディ」と呼ばれるのはおかしいのでミスプリントとして判断したのだろう。原文の「エディ」を「テディ」に変更もしくは修正したことになる。


劇団「円」が今年ピンターの『帰郷』を上演したときは、この「エディ」はさらに「エドワード」になっていたとのこと。エディもテディも「エドワード」の略称。演出では、「エディ」でも「テディ」でもなく、「エドワード」と呼ぶことで、夫婦の間の愛はさめ、他人の関係に変わったことを、この正式な呼称への変化で暗示したことになる。


ちなみに私の持っているThe HomecomigはMethuenの一冊本だが、そのなかでJoeyという人物のスピーチヘディングがoeyとなっているところが一箇所あって、昔読んだとき、それに気づいた私は、鉛筆でJと書いていた。


「テディ」が「エディ」と突然、1回だけ呼ばれるのはなぜかと考えたほうが絶対に面白いし、重要であることはまちがいないのだが、私は、Joeyがoeyとなるようなミスプリントをする版だから、ひょっとしたら原稿ではTeddyとなっていたのを活字を拾うときに、Eddieとしてしまったというようなアクシデントではないかと問題提起した。


これに対しては、それはないと批判された。ちゃんと著者が校正した印刷物なのだから、そのようなことはありえない、と。もしこれがミスなりアクシデントであれば、版が変わるごとに校正をするのだろうから、そこで著者は気づくはずだ。それを気づかないのだから、べつに問題はないということになる。


まあ、それもそうだけれども、oeyのところはどうなっているのかと、新しい版をもっている人に尋ねた。驚くことに、21世紀に出た版でもoeyのまま。ただ機械的に複製印刷しているだけじゃん。校正なんかしてないじゃないか。TeddyからEddieへの変化も、ほんとうはアクシデントなのかもしれない。


ただし、たとえ万が一アクシデントであったとしても、それを最初から意図されたものとして、積極的に評価するほうが面白いことはいうまでもない。いいたいことはひとつ。校正しろよ。

Il

12月6日、日本海での日米共同統合演習にロシア海軍のIl-38哨戒機二機が出現、周回飛行を繰り返し、小松基地から自衛隊機が発進したことを政府は発表。テレ朝で報道ステーションではIl20とIl38が飛来したとのこと。


ちなみに演習を妨害というようは報道もなされているが、冷戦時代から西側の演習の際に東側から監視と情報収集のために哨戒機などが張り付くのは、おなじみの光景で、妨害しているわけではない。むしろイージス艦でのミサイル迎撃能力に関する情報を収集するためには演習をしてもらなわないと困るわけで、妨害などするはずもない。ましてやIl-38という、P3Cによく似たターボプロップ四発の哨戒機で電子妨害以外の妨害などできるはずもなく、もしほんとうに妨害していたら、簡単に撃ち落されてしまう。


だから、やれ妨害だの、中国と連携しているだのと、あおりたてるメディアやアナリストや評論家のほうが、危険であり、報道する側も、確かな知識をもって、冷静に報道して欲しい。


そもそもテレ朝の報道ステーションのナレーターは、Il-38のことを「アイ・エル、さんじゅうはち」と発音していた。バカか。ロシア機の場合、Ilは「イリューション」と読むのであって、ローマ字読みするのではない。ちなみにロシア機の場合ミグはMigそのままだが(正確にはミコヤン・グレヴィッチ)、Suはスホーイと読む。いずれもロシアの設計局の名称と略号。この程度の知識もない報道関係者が、ナレーターの原稿をつくったのだろうが、こうした生半可な知識、いや、たんなる無知による報道が、状況を誤解したり悪化して捉えたりしないか、それはほんとうに心配である。生半可な戦争知識しかない側が、戦争状態を引き起こしてきたことは史上多い、かなり多い、いやほとんどの場合そうであると、私は信じている。