命の値段(タナトスの文化)

ホリプロ50周年映画『インシテミル』(中田秀夫監督)は、豪華俳優陣の共演による映画とはいえ、あるいはそれゆえにか、あまり評判はよくないようだが、しかし、予想通りの映画で(ものすごく期待値が高いわけではないかったので)、じゅうぶんに楽しめた。


不評のひとつは、もちろん複雑な原作を単純化したことから(登場人物の数からして違うらしい−−原作は読んでいないのだが)、つじつまがあわなかったり、説明不足、そしてつっこみどころが多いからからということのようだ*1


たしかに、タイトルの「インシテミルからして、映画のなかでは説明はない。原作を読めということなのか(まあ観客が自由に考えろということなのだろうが)。あるいは、このゲームは、殺し合いのところもふくめ、すべてリアルタイムでネット上に配信され、携帯の画面でそれをみることができるというのは、まあリアルTV(アメリカのテレビで流行ったビッグ・ブラザーのような*2)のパロディなのだろうが、しかし、いくら裏ネット映像とはいえ、殺人をリアルタイムで配信するサイトが摘発されずにいるわけはない。もしそうなら、そうした殺人リアルTVを許容してしまうような、社会変化が生じていなければいけないが(たとえば映画『バトル・ロワイヤル』のときのような)、それはないようだ。


またこのゲームは、すでに何度も行われ配信されているらしいのだが、参加者が、それに気づいていないのもおかしい(最初から知っている参加者がいたり、知らない参加者がいたりという設定は、どうかと思う)。たとえば通り魔殺人者が、ゲーム参加者のなかにまぎれこむのだが、全世界にゲームの様子が配信されているようなら、逃げ込むどころか逆に露出でしかない。また参加者は、自分の秘密を暴露するのだが、まあリアルTVとはいえ、全世界の人々に知られては意味がないし、そのことは最初からわからなかったのか。などなど、こうしていくらでもつっこめる。無限のつっこみ地獄が開かれている。


しかし、それはひとまず忘れて、アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった*3の設定を彷彿とさせるのだが、この映画では、クリスティー作品のように参加者が望むわけではなく招待されるのではなく、参加者は自分の意志で参加する。もちろん時給10万を超えるバイトだからということだから、全員、最初から、危険を顧みず金目当てで参加しているわけだが、殺人ゲーム化することによって、自らの命を賭けた参加となっていく。しかも、そのことを最初から知っているらしい参加者もいるのである。


つまりゲームの勝者だけではなく、犯人になっても、殺されても、特別に高額な手当てがでることがわかるので、これは、自分の体いや命で、金を稼ぐデス・ゲーム、自分の命を交換価値にするゲームだとわかるとき、震撼させられるものがある。


映画のなかで、自分の子供にアメリカでの臓器移植をしてもらうための高額な費用を得るためにゲームに参加する者がいるのだが、現在の臓器移植ブームを考えると、妥当な設定のひとつなのだろうが、しかし、そのインプリケーションは深い。


というのも死体の臓器を移植して、生きるということは、死によって生をはぐくむことだが、それはまた死の価値を高めるものだろう。そして臓器移植制度は、それによって儲けるメカニズムが確立しているわけだから、死の価値だけでなく、死の値段も高めることになる。私の人生はとるにたらないものかもしれないが、私は死ぬことで、多くの人の命を救い、多くの人の財布を太らせるということになれば、私の死は限りなく価値と価格が高い。私は私の死と引き換えに財産を得る。しかもその財産を享受する私はいないのだから、それは私の私益とは無縁の富、無償の、無私の行為となる。いま進行中の臓器移植制度に、私が反対なのは、それが、いつか自殺してまでみずからの臓器を提供しようとする人間を出現させるであろう、タナトスの制度だからだ。そして死を美化することで、儲けようとする人間が現れることで、これまでタブーだった人間の命にまで値段をつけることが可能となり、これで後期資本主義が完成をみるからだ(いやすでに完成をみている後期資本主義の反復的ダメ押し行為かもしれないが)。


この映画でも、ゲームに勝って賞金を手に入れることはむつかしいし、また犯人になって特別手当をもらっても、その金を自分も、また他人も使えないかもしれない(殺人ゲームが、全世界に配信されているために)らしいから、自分を誰かに殺させて死亡手当てをもらい、それを遺族に残そうとする人間が出てくる。そして自らの命と引き換えに巨額の金を遺族に残そうとすることで満足する人間と、その善意を利用して金儲けをしようとするシステム、まさにこれこそ現代日本の、あるいは世界の後期資本主義の縮図ではないのである−−臓器移植は、その最たるものだ。


映画そのものは、生への執着がもっとも強い者が生き延びるというテーゼを、変化してみせる。一見、生への執着が強そうな者たちも、自らの命を捨てるのを覚悟している点で、死への執着が強い。タナトスへの傾斜から身を引き離す臆病者、タナトスを利用するシステムに回収されず逃げる者が、生への執着が強いものだと再定義されるのだ。みっともなくとも醜くとも、逃げて、ただひたすらに生き延びること。多くの文学あるいは軽文学で、ありきたりのテーマでもあるこれが、いま死の領域までも支配しようとしている資本主義に抵抗する文学の力となるかもしれない(実際、タナトスと殉教を主題とする文学が、これから増える可能性があるのだから)。


そう考えると、この映画のもつ、批判性は、深いものかもしれない。映画の中で、殺人が起こると、犯人探しをする探偵役となる人物の推理が正しいかどうかを、参加者の多数決によって決めるという設定があるが、実際には、探偵役の推理は、証拠も何もないずさんなストーリーで、それに対して参加者が多数決で正しいさを決めることにもなっている。まさにこれは現在の裁判員制度への批判以外のなにものでもないだろう。この映画のもつ、社会批判性は、どうもかなり強烈である。

*1:もうひとつの大きな理由は、閉鎖された空間での少人数のドラマは、演劇を連想させ、映画と演劇とは相性が悪いという、間違った通念にもとづくもの。映画は演劇的・舞台的になれば、そのぶん強度が増すし、映画こそ、演劇のよさを最大限発揮できるものであることは、もっと認識されねばならない。

*2:『ビッグ・ブラザー (Big Brother)』 は、Wikipediaの定義によると、「1999年にオランダで放送されたテレビ番組。 完全に外部から隔離され 全ての場所にカメラとマイクが仕掛けられた家で、十数人の男女を3ヶ月生活させ、彼らの生活を 喧嘩・セックス・互いの脱落させ合いに至るまでの全てを放送するリアリティ番組である。この番組のフォーマットは世界各地に販売されている」とある。

*3:最初のタイトルは『10人の小さなニガー』だったり『10人の小さなインジャン』、まあ、どちらもいまではとんでもない差別用語だったので変更を余儀なくされた。また変更後のタイトルのほうが良いように思うのだが。