行きずりの映画


忘れないうちに、映画『行きずりの街』の話を。死ぬまでに一度は、志水辰夫の文体で、書いてみたいと思っている。小説を書いたら、ただのものまねだけれども、論文なら、面白のではないか。一生に一度は書いてみたい。私の夢である。この記事も、シミタツという略式は嫌いなのだが、あえて使うと、シミタツ節で、書いてみようと直前まで思って、やめた。またの機会を待つことにして。小説と映画とは表現方法が異なるわけで、志水辰夫の文体の映画的等価物は存在しないかもしれないが、それでも『行きずりの街』の映画化作品は、それなりに期待してはいた。阪本順治監督だし、はずれということはないだろうと、考えていた。


ちなみに今月は、中学・高校の学園祭を見学させてもらった。文化祭の展示のために、机と椅子をとりはらって、板の間のフロアだけになった教室は、ただっ広いという印象はなく、むしろ、こんなに狭いところに、40名くらいの生徒がひしめき合い、先生が授業をしているのかという、せせこましい印象を受けた。机と椅子がなくなった教室は貧相なのだ。文化祭の各クラブの展示は、そこをいろいろと飾り立てないと、印象がわるくなる。


そんな椅子と机のない教室。そしていまでは取り壊されようとしている校舎の各教室の黒板には、そこで学んだ生徒たちが、いろいろな思いを寄せ書き風に色チョークでびっしりと書きこんでいる。それはそれでリアリティがあるのだが、しかし、舞台あるいは舞台背景として、これほど、貧相で似つかわしくない場所ないだろう。そこでの大立ち回り、アクションシーンが、全体のクライマックスになるとは(もちろん原作の設定ではない)。


そもそも、椅子と机のない教室でのアクション・シーン(繰り返すが原作にはそんなものはない)を決定したとき、ここでのアクションは、違和感というよりの貧相さが目立ってしまい、とにかくダメだと思わなかったのだろうか。あるいは悪役の石橋蓮司の最後の死に方。黒板に後頭部を強打して、黒板に血のあとを残して倒れこむ。しかし、その後、息を吹き返し、よろよろと廊下にでて、主役の仲村トオルに悪態をつくなかで、頭を強打していたことを思い出したかのように頭を抱えて倒れこんで死ぬ。え、なにこのダブルテイクまがいの死に方は。


原作は、しぶい作品だが、しかし映画に比べると、数倍、派手である。いっぽう映画のほうは、しぶすぎて、あたかも映画の制作費のほとんどが出演料でなくなり、乏しい制作費で作らねばならなかった貧相な映画という印象なのだ。映画の終わったあと、映画館の外へ出たら、とくに繁華街というわけでもない街が、人通りの少ない深夜の2時か3時頃ではないかと一瞬思えてきたほどの寂寥感にさいなまれた。実際の時刻は、午後7時前で、にぎやかな街だったが。


しぶくなりすぎて、貧相になったのは、残念でならない。もちろん俳優たちの演技は、一見の価値はあろう。仲村トオルは中年の負け犬オヤジ感がよく出ていたし、窪塚洋介は、原作の、昔風の言い方をすればインテリ・ヤクザ風の男を、原作をしのぐエキセントリシティで、『東京島』のときと同じく、怪演が際立っていたし、小西真奈美は、変な魅力があったし(私は強い性格の役柄の彼女が好きだ)、佐藤江梨は、原作では重要な役割だったが、え、彼女がと一瞬思ったものの、原作とは異なり、重要性が大幅というよりも、まったくなくなっていた。


まあ豪華な俳優陣とは対照的に、映画は、原作のしぶいけれどもけっこう派手なアクションとサスペンスとは異なり(元女子高の国語教師、現在塾講師の主人公では、派手なアクションは成立しにくいのだが、それをやってしまう力技が原作にあったのだが)、お父さんが、別れた女房と、よりを戻し、家出した娘(義娘)を探し当てるというファミリー・テイルに縮小していた。最後の終わりの静止画像が、すべてを物語っていたのだが。まあ、テレビの2時間ドラマでじゅうぶんかもしれない。最後のエンディングテーマの入りかたも、テレビ風だったし。