女たらしとしての芸術家の誕生

本日の映画会は、松井久子監督『レオニー』。驚くほどの重厚な歴史映画になっていて、『ユキエ』から『折り梅』へと続く映画製作は、ここにいたって、完成の域に達したのではなかという気がする。アルツハイマー病を扱った『ユキエ』は、感動的だったけれども、アメリカで製作したということと、もうひとつの問題、つまり戦後、米兵と結婚してアメリカに渡った女性たちの歴史という面が、触れられてはいても、個人的なものに終始して、社会的歴史的広がりを欠いているように思われた。次の『折り梅』では、アルツハイマー病と介護や家族の問題を、正面からとらえていて、しかもいっさい妥協することなく、冷厳な現実をつきつけながら、そこに救いを見出す感動的な映画で、アルツハイマー病についての映画としては、本人のなかでも、また他の映画製作者にとっても、これ以上のものはあらわれないだろうと思われる。「折り梅」の比喩には、ほんとうに目を見開かされた*1


『折り梅』を見て、私は、これまでアルツハイマー病そのものか、それに類似した症状を示す、まあ、もうろくした老人たちとの付き合い方が、根本的にまちがっていたこと、正直言って、もう取り返しのつかない過ちを犯していたことを知って慄然とした。多くの人に見てもらいたい映画だし、私などは、なぜ自分はやさしくなれなかったのかを悔やむことになるが、まだチャンスのある人は、今後の老人との接し方として大いに参考にして欲しい。私はもう介護する人間がいなくなり、こちらが介護される側になってしまったので、チャンスはなくなったので。


『折り梅』のあと、監督は、もう一度アメリカにもどって、最初の作品で撮れなかったものをとった。『ユキエ』のとき倍賞美津子の夫役のボー・スベンソンは、本来ならしぶいいい俳優なのだが、日本人俳優やスタッフとの仕事とで戸惑いがあったかもしれず、それが演技にも出ている。まるでそれはテレビでの英会話の番組で、講師がへたな寸劇をしているよう、そんなふうにしかみえなかった。英会話の講師の寸劇が下手でも、それはしかたがない。でも役者となると問題で、やはり日本側とアメリカ側とのすりあわせがうまくいかなかったのではという気もしてくる(もっとも実際には和気あいあいと仕事が進んでいたかもしれないのだが、結果からみての判断である)。ただし『ユキエ』のなかに出てくるプラモデルは、P-80で、あれは、倍賞美津子の夫ボー・スベンソンが朝鮮戦争の時に搭乗していた「シューティング・スター」だとわかる人間は、そうたくさんはいないだろうと、飛行機ファンの私は、自己満足の境地にいるのだが。


『レオニー』にもどると、月一の映画会ではこの映画が選ばれた。そして重厚な日米合作映画で、満足度は高い。思わず泣いてしまったという会のメンバーが二人いて、たしかに泣かせるというよりも、泣きどころは多い映画だった気もするが、どこで泣いたのかと聞いたら、大地康雄扮する大工の棟梁が、レオニーの子供(イサム・ノグチだが)に、木にカンナをかけるやりかたを教えるシーンだという。


え、そこで、なぜ。たしかに、新築の家を建てているとき、大工仕事をレオニーの子供がずっとみている。棟梁が、おまえもやってみるかとカンナを持たせると、うまくいかない。それはこうするのだと手ほどきすると、イサム・ノグチは上達する。そして彼がアメリカに渡るときには、棟梁からもらった日本の大工道具をもっていくのである。棟梁とイサムとの場面は、いい場面であることはまちがいない。でも、なぜ涙が。


いい場面だけれども、ちょっと情緒不安定じゃないのという失礼な発言もあったが(私の不適切発言だが)、しかし、よく話を聞いてみると、彼女は、イサム・ノグチの絶大なファンであるという。イサム・ノグチの伝記映画でもあるこの映画で、まさに棟梁と少年との出会いが、芸術家の誕生のきっかけになったのかもしれず、まさに芸術家誕生の創世神話に立ち会ったという感動から、思わず涙ぐんでしまったという。べつに悲しいとか、そういうわけではない、と。


なるほど、先の大工道具の件もふくめて、これはたしかに、芸術家誕生の瞬間だったといえるだろう。と、ここで男性会員は、それはよくわかったのだけれど、あの場面で、大地康雄扮する棟梁がイサム・ノグチ少年に何て言ったか覚えていますかと質問した。え、よく覚えていないと、彼女はいうが、男性会員のみならず、私も、ほかの女性会員もよく覚えていた。


大工の棟梁は、大工道具をつかって木を加工するのは、女あるいは女の体を扱うのと同じだと言ったのであり、その台詞に、私はかなり引いてしまったのだが、私よりももっと引いてしまう観客がいてもおかしくないと思った。昔の話とはいえ、あんな古臭い男女間それも男性中心の観点は、ないぞと、怒りすら覚えたのだが、おそらくそれは監督の意図するところだろうという結論に、私たちは達した。


つまり大工の棟梁と少年の場面は印象的だし、芸術家誕生の瞬間あるいは芸術遍歴の始まりの瞬間なのだが、同時に、少年は、棟梁から、芸術の素材は女性であり、そこから芸術を生み出すのが芸術家の手腕であるというジェンダー化された教えを受けたのであり、まさにこの瞬間こそが、イサム・ノグチというWomanizer誕生の瞬間、あるいは彼の女性遍歴の始まりの瞬間だったのだ。


映画のこの瞬間は、芸術家とプレボーイの二人を誕生させていたのである。なるほどそう思うと、これはすごいことかもしれないと思った。映画ではイサム・ノグチの女性遍歴は描かれていないが、それをこの棟梁と少年の場面で匂わせているとは、憎い演出いえるだろう。ちなみに、この場面で泣いてしまった会員は、棟梁の女性蔑視的発言は覚えていなかったのも、なにか意味があるのだろうか。


では母親レオニーの存在はどうなるのだろうか。映画ではイサム・ノグチの女性遍歴は匂わせるだけで、はっきり提示されないのだから、何もいえないのだが、イサム・ノグチの華麗なる女性遍歴は、本人の魅力もさりながら(実際にドウス昌代の伝記は、女性にとってイサム・ノグチ本人がどのくらい魅力的だったのかということを探っているのだが)、同時に母親の存在も大きいだろう。


いうまでもなく一人の女性に満足しないプレイボーイは、どの女性にも満足しない。そして女性遍歴をつづけるのだが、それは、どの女性も母親の代役であり、同時に、どの女性も彼の母親になれないために棄却されるのである。プレイボーイにとって究極の女性は母親である。その母親の代理を求めてつぎつぎと女性を変えてゆくが、どの女性も母親に比べたらどこか異なるか欠陥があるのである。


となると芸術家/プレイボーイとしてのイサム・ノグチを産んだのは、まさに血縁的母親であるレオニーでもあり、また、究極の女性として、イサム・ノグチの女性遍歴の契機ともなり不可能な到達点ともなった――まさにアルパにしてオメガ――のもレオニーであって、レオニーの伝記映画でもあるこの映画は、イサム・ノグチの伝記映画と相補的関係にある。どちらがネガでポジかは解釈によるのだろうが。


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あとレオニー役のエミリー・モーティマーEmily Mortimer(1971-)について。不思議な魅力をもった女優で、気づいたら、彼女が出演している映画は、かなりみていることがわかった。そのため今回の役どころは、彼女が過去に出演した、映画の役と重なるところもあり、既視感がある。たとえば母子家庭で、頭のいい息子と暮らし、別れた夫から逃れて独り立ちをしようとしてる女性といえば『DearフランキーDear Frankie (2004)彼女ではないか。


レオニーの娘は、いったい誰の子供なのか。つまりイサム・ノグチの妹の父親は、最後まで誰なのか映画のなかではあかされない。伝記的にもわかっていないようだが、そういえば、子供のできない体であることが判明した夫が、いまの娘は、いったい誰の子供なのかと悩む映画があった。父親のわからない娘の母親役をエミリー・モーティマーが演じていた。『カオス・セオリー』(2007*2は、『マッチ・ポイント』でエミリー・モーティマーと共演している。あの映画では、地味系の女性としての役どころで、ヨハンセンの引き立てやくだったが、彼女は『猟人日記Young Adamでも地味な女として、ユアン・マクレガーに殺されていた――ポスターとかDVDのジャケットで、ユアン・マクレガーの足元に全裸で死体として横たわっているのがエミリー・モーティマーである。


と同時に、彼女は、強くて派手な女を演ずることも多く、『キッド』Kid(2000)がそうだが、ほかにも51stState(日本語タイトルは忘れた) (2001)では、ロバート・カーライルの恋人で殺し屋という、ぶっとんだ役もしていたが、2000年代後半になると地味な、重厚な役どころにシフトしたのかもしれない。『レオニー』はそんな彼女の集大成といったところもある。

*1:あと映画の舞台が愛知県豊明市であることも、つまりみんな名古屋弁を話していることも、私にとっては親近感が沸く要素だったが。

*2:日本未公開のこの映画は、日本版DVDが出ていて、簡単にレンタル、購入できる。)))である。夫役のライアン・レイノルズが、熱演していて、誰の子供かわからない娘に、最後に救われるという、皮肉っぽいが感動的な映画であった。 ライアン・レイノルズといえば、昨年『あなたは私のムコになる』でサンドラ・ブロックと共演したばかりだが、比較的最近、『[リミット]』Buriedでの一人芝居をみたばかりだが、彼が結婚していたスカーレット・ヨハンセン((ライアン・レイノルズは、2010年12月にスカーレット・ヨハンセンとの結婚を解消した。