Teddy/Eddie

残り少ない人生なので、昔読んだり、読んでいない演劇作品を読むために、ささやかな読書会をしている。参加者が企画を持ち寄るものなので、毎回趣向は違うが、いずれも演劇関係なので、私にとっては有益かつ楽しい。


そうした読書会・研究会のなかでハロルド・ピンターの『帰郷』The Homecomigを最近読んだ。この芝居のなかで、細かなことを省くが、テディTeddyと呼ばれているノース・ロンドン出身で、いまではアメリカの大学で哲学を教えている人物が登場する。彼は周りからも、また妻のルースRuthからも、Teddyと呼ばれているが、劇の最後、妻との別れ際に、妻からEddieと呼ばれるのである。


喜志哲雄氏は、このテディからエディへの呼び方の変更を重視している。それをどう解釈するかは別にして、鋭い着眼であることはいうまでもない。ところが現在、ふつうに流通している小田島雄志訳では「テディ」になっている。つまりそれまで「テディ」と呼ばれ続けている人物が、ここでいきなり「エディ」と呼ばれるのはおかしいのでミスプリントとして判断したのだろう。原文の「エディ」を「テディ」に変更もしくは修正したことになる。


劇団「円」が今年ピンターの『帰郷』を上演したときは、この「エディ」はさらに「エドワード」になっていたとのこと。エディもテディも「エドワード」の略称。演出では、「エディ」でも「テディ」でもなく、「エドワード」と呼ぶことで、夫婦の間の愛はさめ、他人の関係に変わったことを、この正式な呼称への変化で暗示したことになる。


ちなみに私の持っているThe HomecomigはMethuenの一冊本だが、そのなかでJoeyという人物のスピーチヘディングがoeyとなっているところが一箇所あって、昔読んだとき、それに気づいた私は、鉛筆でJと書いていた。


「テディ」が「エディ」と突然、1回だけ呼ばれるのはなぜかと考えたほうが絶対に面白いし、重要であることはまちがいないのだが、私は、Joeyがoeyとなるようなミスプリントをする版だから、ひょっとしたら原稿ではTeddyとなっていたのを活字を拾うときに、Eddieとしてしまったというようなアクシデントではないかと問題提起した。


これに対しては、それはないと批判された。ちゃんと著者が校正した印刷物なのだから、そのようなことはありえない、と。もしこれがミスなりアクシデントであれば、版が変わるごとに校正をするのだろうから、そこで著者は気づくはずだ。それを気づかないのだから、べつに問題はないということになる。


まあ、それもそうだけれども、oeyのところはどうなっているのかと、新しい版をもっている人に尋ねた。驚くことに、21世紀に出た版でもoeyのまま。ただ機械的に複製印刷しているだけじゃん。校正なんかしてないじゃないか。TeddyからEddieへの変化も、ほんとうはアクシデントなのかもしれない。


ただし、たとえ万が一アクシデントであったとしても、それを最初から意図されたものとして、積極的に評価するほうが面白いことはいうまでもない。いいたいことはひとつ。校正しろよ。