灰皿と傘

灰皿で、テキーラを飲む、聖夜かな

海老蔵事件の真相は、闇の中、藪の中、だが、「灰皿でテキーラを飲む/飲ませる」というのは、社会の一部でごく普通に行われている儀式めいたものなのかどうか、全く何も知らないが、儀式ではなかったとしたら、そうした発想は、すくなくとも私の想像力の中に引き出しにはないので、ただただ、驚き、感服した。


そういう儀式があって、べつに珍しくもない発想だったのなら、それでもいいが、そうでなかったら、その発想はすごい。私には絶対にマネができない発想である。


大阪の道頓堀で、違法に屋台をかまえて営業しているたこ焼き屋に、市の経済局の職員が乱暴をはたらいたというニュースが流れた。開いた傘を振り回してしずくでたこ焼きそのもの、そして道具をずぶれにして、使い物にならなくしたという。不法に占拠している店側にも問題があろうが、事情がよくわからないので触れない。また、立ち退きを要求する担当でもなく、別の部署の職員が、酔ったいきおいとはいえ、迷惑をかけられているわけでもないのに、暴れるという、くそ正義感はどこからきたのかとも思うのだが、これも今回は無視。


私が驚いたのは、開いた傘を振り回して、傘のしずくで、商品や道具をだいなしにすること。私には絶対に不可能な発想である。つまり傘をもっていたら、それで店員をつつくとか、威嚇するということくらいは、私でも思いつく。しかし開いている傘を回転させて、水しぶきで商品や道具をだめにするという発想は、私にはどうしても不可能である。「灰皿でテキーラ」と同じような、衝撃を私は感じている。


これは、そういう嫌がらせのときの定番の行為なのだろうか。だとすれば、問題ないが、そうでなかったとしら、どこからそんな発想というか行為が生まれてくるのだろう。異文化に生きている外国人の行動を観察しているような違和感がある。