トロン・テンペスト


今月見た映画のなかで、映画館内でまわりの人たちが明らかに泣いていると思われる映画はいつくかった。『Space battleship ヤマト』では若い人たちが泣いていたし、『酔いがさめたら家に帰ろう』でも慟哭できる場面もあった。『クレアモントホテル』でも、年配の女性観客が泣いていた。残念ながら、どの映画も、いい映画だとは思うけれども、私は泣けなかった。悲しい内容であることはわかるが、とくに涙ぐんだりもしなかった。


そのかわりに、ただのロードショー大作映画『ロビンフッド』で、泣いてしまった私はなんだろう。ただし、その正義のむきだしには、泣けるものがある。だから自分なりにもわからないわけでもないが、『トロン』で、泣いてしまうとは、私はただの情緒不安定なのか。いや、そうではない。不覚にも映画を見るまでは不覚にも気づかなかったが、『トロン レガシシー』は、シェイクスピアの『テンペスト』だったのだ。


前作『トロン』は、シェイクスピアとは全く無関係である。82年という古い映画を、今回、『トロン・レガシー』をみるために見直してみた。忘れていることのほうが多かったけれども、思い出しこともたくさんあった。一例だけあげれば、『トロン』の最後で、建物の屋上のヘリポートでヘリコプターを待っているシーン。昔映画館で見たときのことを思い出した。ヘリコプターは上空から舞い降りるのではなくて、下方からいきおいよく上昇してくるのである――あの場面を思い出した。


あれから30年近くたってからの『トロン:レガシー』では前作にない親子の関係などがメインになってきた。そして驚くことがあった。構造がシェイクスピアの『テンペスト』に似ているのである。


この12月はジュリー・テイモア監督の『テンペスト』がアメリカで公開されたが、それはプロスペロを女性のプロスペラにして、ヘレン・ミレンが演ずるという、ジェンダーを変えた『テンペスト』で興味しんしんではあるのだが、それにくらべると『トロン:レガシー』版の『テンペスト』は、むしろオーソドックスな解釈をしている。

人物対応表:

プロスペロ    → ケヴィン・フリン/ジェフ・ブリッジス
キャリバン    → クルー/ジェフ・ブリッジス
ミランダ     → クオラ/オリヴィア・ワイルド
ファーディナンド → サム・フリン/ギャレット・ヘドランド

エアリル     → たぶん トロン
ゴンザーロ    → アラン・ブラッドリー/ブルース・ボックスライトナー

解説を加えると、
テンペスト』では、プロスペロは、もとミラノ公、ミラノを追われて地中海の孤島で娘と暮らす魔法使いだが、ケヴィン・フリン/ジェフ・ブリッジスもまたグリッドと呼ばれる電脳世界で養女と暮らし、またユーザーとして魔法のような超能力を発揮する。


 プロスペロは、ナポリ王の息子ファーディナンドと、娘のミランダとを結婚させようとするが、『トロン:レガシー』では、ファーディナンド役ともいえるサム・フリン(ギャレット・ヘドランド)は、ケヴィン・フリン(プロスペロ)の息子であり、20年ぶりくらいの再会を果たす。そして、ファーディナンド(映画では息子サムだが)と結ばれるのが、ケヴィン・フリン(プロスペロ)の養女ともいえるクオラ(オリヴィア・ワイルド)であり、彼女がミランダである。


ではキャリバンは誰かというと、ケヴィンがこの電脳世界で、自らを複製して作った分身のようなプログラムで、クルーと呼ばれている。彼もまた、ケヴィンの息子であるといえるが、こちらはユーザーであり神でもあるケヴィンに反旗を翻し、反乱を起こし、プログラムを集めて大軍団を形成し、人間世界に浸透してそこを支配しようと目論んでいる。


結局、ケヴィンは、サムとクオラという若いペアに、未来を託し、みずからの分身でもあるクルーと合体することで、クルーと自分とを消滅させて、グリッドと呼ばれる電脳世界が人間界を支配するのをふせぐ。諸プログラムの頂点にたち独裁的なクルーを、みずからの暗黒のものと認めたケヴィン=プロスペロは、クルーの野望をくじき、クルーと一体化することで、クルーを消滅させるが、それはまた自分が消滅することでもあった。ここには、《イドの怪物)=キャリバンに立ち向かい、それに焼き殺されることで、最終的には怪物も消滅させるというモービアス博士の――『テンペスト』を使ったいまひとつのディズニー映画『禁断の惑星』における――最期を彷彿とさせるものがある。


映画の最後は、人間界にもどってきたサムと、奇跡のプログラム=人造人間であるクオラが、一台のバイクで風を切ってゆく、そのふたりの顔が大写しになって終わるのだが、もうここまでくると、ああファーディナンドミランダと、思わずにはいられなくなり、涙があふれてきた。


シェイクスピアの『テンペスト』はハッピーエンドながら、完璧な結末とはいいがたく、世代交代もスムーズには行われていない。新たな未来がはじまるというよりも、同じ古き悪が反復される感が強い。『テンペスト』――単独作では最後の作品であり、円熟した境地に達したシェイクスピアの未来のヴィジョンが、またみずからの演劇芸術への惜別の念とがまざりあいながらも、明示される晩年の作と思われている――は、ハッピーエンドとは限りなく遠い問題作でもあるのだ。


完璧なハッピーエンドと未来のヴィジョンを示すためには、プロスペロが、キャリバンを自分のものとただ認めるだけでなく、キャリバンを抱きしめて、ふたともども死ぬべきであったのだ。そうすればプロスペロの徹底した模倣者でもあったキャリバン、プロスペロひいては西洋の白人の醜く悪辣な面をすべて複写したキャリバンの、ある種の悲哀もまた、プロスペロとの死にを通して明確につたわったはずなのだが。


そして、若い世代の恋人たちも、新世代たるにふさわしい新たな可能性を体現すべきなのだが、『テンペスト』ではその片鱗はみえても、十全な開花を約束するものではない。ただ新世界的環境で育ったため、無垢と無知が合体したクレオール的な娘であるミランダに未来が胚胎することの示唆があるだけである。


いっぽう映画は、この可能性に賭けた。私たちが驚くのも、映画におけるこの強調である。映画は『テンペスト』におけるミランダの重要性を正しく認識している。ミランダ=クオラは、プロスペロに助けられた新種のプログラムである――助けられたという点、またサム=ファーディナンドを救い、ケヴィン=プロスペロのところに導いてくる点、クオラには『テンペスト』におけるエアリルの要素も含まれているが。しかもミランダ=クオラは、この電脳世界で生まれた新種の、奇跡のプログラムであり、クレオールでもあるのだ。しかも彼女は、クルーによるジェノサイドをまぬがれてプロスペロに救われたのであり、クレオールの彼女には、第三世界の女の面影もある。


テンペスト』のなかで、薪運びという重労働を課せられるファーディナンド(映画ではこれはサムが投げ込まれるグリッド・ゲームとなる)に対して、ミランダは代わりに薪を運んでやると言って、重労働を平気で引き受けようとする(これは読んでいると誰もが驚くところである)。新世界の無垢な女としてのミランダはジェンダー役割に束縛されていない、ジェンダーフリーな存在なのだ。同様にクオラも、体をはってサムを助けるのであり、戦闘能力は異常に高い。しかもミランダと同様、父親の目を盗んで、ファーディナンド=サムに話しかけ情報を提供する。ふたつのジェンダーを往復し、父親に忠実ながら同時に若い世代にも忠実な二つの世代の女。彼女は、さまざまな境界を越える、越境者なのであり、映画ではさらにプログラムと人間との境界を越える(ここにさらに、クオラを演じているオリヴィア・ワイルドが、アイルランドと米国の二重国籍取得者であることを付け加えるべきかどうかは、わからないが)。


ドナ・ハラウェイのサイボーグ・フェミニズムは、前作の『トロン』よりも、新しい、というか、まだ古くなってはないと思うのだが、ハラウェイによれば、未来を築くのは、サイボーグとしての女性であり、このサイボーグとしての女性は第三世界の女でもあった。ハラウェイのサイボーグ・フェミニズム論が、映画『トロン:レガシー』のなかでは、その潜在的な可能性を、いよいよ実現するかに思われるほどの迫力をもってせまってくる。もし未来が、第三世界の女性によって担われることがないのなら、あるいは未来が、第三世界の女性の十全な活躍を約束しないような構造変化を遂げないなら、未来は現在と同じく地獄のむきだしであろう。映画のなかでサムは父親が電脳世界にとらわれている間の人間世界の変化について語るが、残念ながら、人間界の現在は、クルーに支配されている電脳界と同様、かんばしいものではない――ここに前作『トロン』から引き継がれている重要なテーマが反復される、つまり人間界と電脳界とが平行関係(内容的も、ヴィジュアル的にも)にあるという主題である。ユートピアは実現していない。ディストピアが人間界と電脳界に出現している。未来は、電脳界と人間界を往復した二人の若者サムとクオラ、つまりファーディナンドミランダにゆだねられる。とりわけはじめて人間界にやってきた異物であるクオラの役割は大きい。映画の最後は、暗黒の電脳界を逃れた安堵と、未来の変革への期待と不安の入り混じった二人の若者の顔のアップで終わる。


トロン:レガシー』は、シェイクスピアの『テンペスト』が、実現できなかった、ハッピーエンドを実現させたといえるかもしれない。実現できなかったのはシェイクスピア時代のイデオロギー的制約ゆえにと、いえるかもしれない。ミランダには、男性間の政略と権力闘争のなかの一駒として使われる未来しかないようにみえる。彼女がジェンダーの枠を超え、男性と対等にわたりあえる可能性は、『テンペスト』の時代にはなかった。たとえ舞台のうえでは男装というかたちでの女性の活躍が実現していたとしても。


あるいはこうも言える。ディズニー映画が『禁断の惑星』と同様、『トロン:レガシー』においても意図的にシェイクスピアの『テンペスト』のアダプテーションを作成しようとしたのかどうかはわからない。むしろ『テンペスト』的物語構造を利用しているうちに、ミランダの可能性を偶発的に開花させてしまったのかもしれない。いずれにせよ、それは奇跡に近いすばらしいことだと、『トロン:レガシー』のケヴィン/ジェフ・ブリッジズのように喜ぶ準備はできている。そしてケヴィン/ジェフ・ブリッジズのように、この続きはまたいずれと告げる準備もできている。