コーカサスの白墨の輪 2

2月3日土曜日に、東京国際芸術祭2007の一環で「アメリカ現代戯曲&劇作家シリーズ ドラマリーディング」に出かけた。演目は『DOE 雌鹿』(トリスタ・ボールドウィン作、小澤英実訳、羊屋白玉(指輪ホテル)演出)。於:にしすがも創造舎特設劇場(廃校となった朝日小学校の講堂を劇場にしたもの)。


Janeと呼ばれる女性が主人公。その女性が車で跳ねたかもしれない/殺したかもしれない鹿あるいは女性が最初は全裸で主人公に絡んでくる。彼女は劇中で名前を失っているが、台本ではeと呼ばれる。彼女の意味、それはジャンJanという愛称でも呼ばれるJaneという名の主人公が置き去りにしたか抑圧したみずからの一部ということだ。彼女eはレズビアンであり、JanというかJaneにからむ。Janeには男性の恋人あるいは夫がいる。


劇は、主人公が、レズビアンの女性と男性の夫を、排除する(殺す)か、吸収することによって、自立するところで終わる。全裸の女性の死体が口をききはじめる驚愕する主人公から始まる戯曲は、主人公が最後に全裸になり裸の姿(後姿)を観客にさらして終わる。


その間、現実なのか夢なのか、生か死か、現在か過去が判然としない、曖昧な台詞と状況がつづく。繰り返すが、主人公にからむレズビアンの女性は、台本レヴェルでの話では、主人公の分身という意味づけが与えられる。そして私が一番嫌いなのも分身という解釈である。なるほど分身としておけばすべてが丸く収まる。すべてのドラマは主人公の外部で起きているのではなく内部でおきている。またそこから、観客がみている舞台そのものが実は観客の内部だということもいえる。登場人物はすべて観客の分身であるとも……。


こうして分身の輪は限りなくふくれあがり、劇的緊張を緩和してゆく。つまらないのだ……



なぜなら私の目の前にいた三人のうち両端のふたりは、ちょうど真ん中にいる彼女の分身であるなどとはとてもいえないほど、たとえあまり口を開かず、どちらかというと泣いている真ん中の彼女もふくめ、三人が三人とも動かしがたい現前性と他者性によって、いかなるものにも回収されないかたちで、私の眼前にいたのだから。



時間的順序は逆だが、私が事情を聴くことになった事件(ともいえないものだが)を、5日の会議で思い出すなかで、私は過去の事件をあらためてふり返るとともに、3日に見た舞台のことを思い出していた。舞台を事件に重ね合わせた。両者とも、スリーサムであり、通常のヘテロの三角関係とは異なり、ひとりの女性を女性と男性が奪い合うかたちになっていた。だが違いもある。舞台のほうでは、女性はレズビアン的半身・分身にも傾き、また男性にも傾く。つまり両方から、女性と男性にひっぱられる女性が主人公であり、彼女は苦悩しながらも自立への道を歩み始めるのだが、私の前に展開している男女関係では、一人の女性を奪い合う女性と男性が強烈に自己の正当化を主張し、相手の非を訴えているのに対して、真ん中の女性は一番声を上げていない。上げているとすれば泣き声だけである。彼女は主人公ではない。どちらかというと脇役で、主人公は、この脇役を奪い合う二人の男女だ。


審問室にもどろう。


これは誰もが思うことだが、XさんとY君が、言葉はきついが、まあ「Zさんを自分のものだ」と主張しているわけだから、Zさんこそ、状況を打破する鍵を握る人物であって、Zさんに話をさせれば、結果はどうであれ、事態は収拾に向かうはずだ――そう考えた。誰でも考えることだが。


そこで私はZさんにあなたの気持ちはどうなのかと尋ねた。彼女は、Y君とこれからもなかよくやってゆきたい。Xさんに邪魔はされたくはないと明言した。だがこれで事態は収まらなかった。Xさんがすかさず主張した。ZさんはY君の手前そう言っているだけで、ほんとうに愛しているのは自分(Xさん)のほうだ。その証拠にと、こんなメールのやりとりをしているじゃないかと携帯を見せる。ここからは何があったのかを確認する作業がはじまるが、細かすぎていまでは記憶にない。Y君も今度は、Xさんがいつもこうやって邪魔をする。せっかっくXさんと離れようというZさんの気持ちを、いつも無視して踏みにじるはXさんだと主張する。


こうなると水掛け論になるし、恋愛に解決などなくなってしまう。鍵を握るZさんについていえば、彼女にとっての選択肢は、Xさんと縁を切ってY君との関係を強固なものにするのでもなければ、逆にXさんのもとへ戻って、Y君との関係を絶つことでもない。どちらの場合も、XさんもY君も納得しないだろうし、水掛け論がはじまるだけだろう。


そうではなくて、Zさんにとっての選択肢は、どちらとも縁を切るか、どちらとも仲良くすることだろう。これしか選択肢はない。そしてZさんは、どちらとも縁を切るという選択肢は選びたくなかったように思われる。べつに彼女は絶縁すると二人からの攻撃が怖いという気の弱い女性というのではなく(よく泣いてはいたが、決して、気の弱い女性には見えなかった)、ふたりとの関係を続けるほうが(基本はY君との恋愛関係だが)、これからもいろいろな可能性を選べるのではないかと考えているようにみえた。


問題はこれでは事態は打開しない。早く帰りたいと思ったのではない。このままだと遅くなるどころか全員が疲労してぶっ倒れるまで、話は終わらないので、なんとかしなければと思ったのだ。そこで、泣いているZさんと共闘することにした。コーカサスの白墨の輪だから。


私は二人にZさんは泣いている。二人ともZさんのことを好きで、愛していることもわかる。だったら、Zさんのことを思いやるべきだと。つまりいま二人はZさんの腕をとって、両側から彼女は自分のものだ、自分といっしょに行こうと争っているので、それで痛い思いをするのは、Zさんだ。泣いているじゃないか。もしほんとうにZさんのことを思っているのなら、手を離すのが筋だろう。もし手を離さないとしたら、それはZさんへの愛ではなく、二人とも利己的に我をはっているだけで、自分のプライドしか考えていないのではないかと*1


そこで提案として、Y君は今日のことをXさんに謝罪してください。協定というか念書に書かれたことを破ったのは確かだから。と同時にXさんはY君の謝罪を受けて、Y君のことを許してあげたらどうか。理由は、この件であなたが警察へ行ったりしたら、Y君は悪いのだから自業自得かもしれないけれどもZさんが悲しむでしょう。すこし我慢してもらえないかと。


するとXさんは、「それだったら、自分は協定を破られても訴えるわけにはいかず、Zさんとは引き離されて犠牲が大きいのではないか。私だけが損をして、Y君はただ頭を下げればいいということになってしまう」。私「でもその自己犠牲がZさんへの愛の証ではないか。ふたりがともにZさんを愛していることはわかる。それによって二人とも犠牲を払ってきた。Y君はたとえ自分に非があるとはいえ屈辱的な念書を書いた。XさんもZさんのことを思い、長年の関係を解消しなくても薄いものにした。どちらも苦しい思いをしている。しかしだからとって二人が争えば、傷つくのは、Zさんでしょう」。


この提案に対して


Xさんは、納得しなかった。Y君の謝罪を受け入れなかった。学生相談所(仮称)に行き、今回の件を訴え、警察に訴えるかもしれないと語った。私は、それについて止める権利はない。ただ繰り返すようだが、訴えた場合、苦しむのはY君ではなく、Zさんですよ。Zさんのことも考えてくださいと付け加えた。また今日のことは、私が目撃した範囲のことは正直に嘘偽りなく証言すると彼女に約束した。


今日は、これ以上、話しあっても結論も出ないし、関係が良好になるわけではないから、いったん帰宅して頭を冷やしたほうがいいと述べた。たしかに全員疲労していた。なお事情を聞く段階で、暴言を吐いたり、不適切なことを述べたかもしれないので、それは深くお詫びします(と、こう言ったことは、はっきり覚えている)。


会議室のドアがあく。審問官と事務官はふたりでドアを押さえている。最初にXが出てくる。彼女は泣きはらしている目をしている。目には悲しみと怒りが残っている。不満が表情にありありと出ている。意を決したかのように足早に去る。つぎにYとZが出てくる。Zはもう泣いていない。泣きつかれたか、うんざりしたような表情で、そばにいるYのほうを見ようとはしない。解放されてよかったという表情と不機嫌そうな表情が同居している。Yは苦悩をにじませる表情で、Zに付き添っているが、彼女に声はかけていない。うなだれて去る。三人ともドアを押さえていた審問官と事務官に挨拶も会釈もしない。3人が出て行ったあと、事務官は会議室の鍵をしめる(カードロックだが)。「むつかしいことです」と事務官は独り言のようにいう。ふたりは「お疲れ様」と声をかけあい、退場する。


問題はここで終わらなかった。


私はこの件をA委員長に報告した。簡単にメールで。また口頭で報告した。とはいえ三人(X,Y,Z)のことはA委員長がよく知っていたので、詳しいことを報告しなかった。A委員長いわく「私たち相談員の役目は、話を聞いてあげることですから」。これには私も同意した。


A委員長は、3人のことを知っていたが、3人の関係を知らなかった。誤解していた。そしてその誤解は、A委員長のせいではなく、カウンセラーの意図的韜晦によるものだった。これはほんとうにひどい。つまりカウンセラーは、委員長に個人情報だからと彼ら3人の関係を正確に伝えなかったのだ。


病気の比喩は危険だから慎まなければいけないのだが、同性愛は決して病気ではないことを確認のうえ(世界的にも、日本でも、同性愛は病気ではない。だから同性愛に対する病気治療は存在しない)、ただし同性愛は誤解や誹謗中傷の的となり困難な状況につらなる契機であることは事実で、爆弾とも病巣とも比喩化できるとして、たとえば肺に病巣があることを知らなかった、もしくは検査して確認せずに手術をしたため、術後、患者の容体が急変して死にいたったというのがテレビ版『白い巨塔』の設定であった。財前教授は、手術を急ぐあまり、検査をしなかった。それが有罪の根拠となる。財前教授が有罪になるのはかまわないが、問題は患者のほうである。患者の特定の部位に病巣があるということを知らされずに処置したら、患者を苦しめたり死に至らしめることがある。


私の大学のカウンセラーは、患者に病巣があることをなんら告げずに処置にまわした。そしてそれは患者をとても苦しめることになった。大学への不信を患者はあらわにするようになった。それはほんとうに申しわけないことをしたと、直接会って詫びたいと今も思っている。


結局、詳しいことは、知らないが、あれからXさんは相談所か警察にYのことを告発したらしい。またYのほうもXさんのことを訴えたようだ。そこでこの件が、防止委員会(仮称)のほうに回ってきた。委員会では三人に事情を聴取することになった。


A委員長は、この時点で、Y君が、Xさんに対し、今後**メートル以内に近づかないという念書を書いたこと知っている。たしかにY君はXさんに暴言・暴力的行為に及んだのだからそうした念書を書かされたことは、しかたがないことかもしれない。しかしカウンセラー側は詳しい説明をしなかった。そこでA委員長は、Y君はXさんのことが好きで、ストーカー行為を働いたと解釈した。その念書を読めば、そう解釈するしかなかった。


さらに三人の関係のうち、XさんとZさんは知り合いのようだ。またY君とZさんは恋人どうしのようだ。


となると:

Xさんは、Y君にストーカーされている。ところがY君の恋人であるZさんと知り合いだから、あまりY君のことを悪く言ったりできないので困っている。

Y君は、Zさんという恋人がありながら、元彼女かなんだか知らないが、Xさんのあとをつけてまわっている。

Zさんは自分の恋人Y君が、自分の友人のXさんをつけまわしていて困惑している。


これが事情聴取のときにA委員長の念頭にあった人間関係であった。しかし再度の事情聴取のとき、委員会では必ず二人一組なって事情を聞くように義務付けられているので、副委員長である私を選べばよかった。しかし、この三人の事件のあと、私はべつの件でも事情聴取をおこなっており(そのときはサブにまわったが)、私が事情聴取に使われすぎているということで、別の委員を委員長は選んだ。この決定は間違っていない。だが、それが不幸な結果を招いた。

再度の事情聴取は、難航したようだ。ひとりずつ呼んで、A委員長とC委員が事情を聞いた。しかし上記のような誤解があったので、どうも話がかみあわない。また三人も、事情はカウンセラーにも話しているし、別のB委員(つまり私)にも話しているので、委員会では自分たちのことを正確に把握していると思ったふしがある。また話しにくいこともあり、言葉を濁したこともあっただろう。誤解をひきずったままA委員長とC委員は、Y君の事情聴取にいたって、はじめて全貌を知ることになった。そのためA委員長は、私とちがってY君に全幅の信頼を寄せているふしがある。


なぜなら1)Y君は正直に話しくれたし、彼の話によって全体像が俯瞰できた。しかも2)これまで加害者と思われた、あるいは思っていたY君が被害者であったとも判明したのだから。以後、A委員長はY君を被害者として扱っている。


実は私も事情聴取のときにY君に対して好感をもったいた瞬間がある。攻撃的なXさん、いまひとつ心を明かさないZさんに対して、Y君は誠実かつ説得力にとむ話し方をする。そして3)彼はヘテロ関係の構築者であり、このヘテロ関係を壊そうとする介入者Xさんとは一線を隠す。ということになる。


だがこの信頼には問題がある。レズビアンは悪でも病気でもなんでもない。恥ずかしいことでもなんでもない。しかし世間では好奇と差別の目でみられることがあるかもしれない。だから、ずっとレズビアンであるXさんにとっても、男性の恋人がいるからとって、過去にはレズビアンであったZさんにとっても、同性愛関係のことを告白するには勇気がいるし、ひるんだり隠したい気持ちもあるだろう。もしここで恥ずかしいこと思うなら、そんなことをしてはいけいないと考える馬鹿者がいたら、そいつを殺すことを私はなんら恥ずかしいと思わないぞ。恥の問題は大きい。XさんとYさんの話が要領を得ないのは当然である。彼女たちは被害者なのだから。


いっぽうY君はヘテロというかストレートだから、もう正々堂々としていられる。なにっも隠し事をすることもない。馬鹿なカウンセラーに念書を書かされた。それをあえて受け入れた英雄でもある。なにも恥じることはない。当然である。マジョリティの側に立っているのだから。そしてマジョリティの側に立っている人間は、被害者でなく加害者である。彼が協定を破ったり、女子トイレに入ってきたりしたことを無視し、さらにマジョリティであることも無視し、レズビアン女の介入によって迷惑している被害者と考えるのは、典型的なホモフォビアではないか。


しかし最初にも書いたように、最大の問題は、つまりA委員長が意図せずにホモフォビアに染まってしまった最大の原因は、カウンセラーが同性愛のことを伝えなかったことにある。実際、A委員長は、この件でカウンセラーに抗議したそうだ。信頼関係をそこねている。医者あるいはカウンセラーが患者の秘密を守るのはわかる。しかし委員長は、カウンセラーあるいは医者に順ずるのであって、委員長に重要な秘密を伝えない、もっと困ったことに、委員長が誤解している(誤解はもっともなだが)ことをわかっても、その誤解を訂正しようともしなかった。最低のカウンセラーである。


カウンセラーいわく、セクシュアル・マイノリティの問題はデリケートな事項で、あからさまに伝えると問題が起こるという主旨のことを委員長に伝えたそうである。バカか。このカウンセラーは。セクシュアル・マイノリティだから、問題が起きるのである(セクシュアル・マイノリティが問題だと言っているのではない)。誤解や偏見や差別にさらされるセクシュアル・マイノリティだからこそ、保護されなければいけない。ヘテロでストレートな人間が恋愛関係で問題を起こすか。だから同性愛の件を隠し通すのは、結局、またふたたびホモフォビアにゆきつくのである。


結局、保護されるべきは、のうのうとヘテロセクシズムというマジョリティにあぐらをかき、被害者面をしているY君ではなく(Y君は実際被害者であることは確かだが、狭義でも広義でも加害者である)、今回の件で、一番傷ついき、二人の恋人のなかを裂く異常な女という悪役になってしまっているXさんである。私もXさんに自制を求めた。誰もが彼女の行動を批判するかもしれない。しかしほんとうに傷ついているのは彼女であることはまちがいない。私はそれがわかるし、多くの人も私と同意見であろう。委員長の報告からは、Xさんの動向はわからい。大学側の対応に批判的だというのはどちらのことだったのか。3人がそう思っているのか。わからない。いっぽうY君のほうは、今回の件がトラウマになって相談所から携帯に電話がかかってくるとどきっとするなど、その日常と現状が細かに報告されている。


こうして不可視の存在になった、そしてもっとも傷ついている最大の被害者Xさんに、私は心からあやまらねばならない。くだらないホモフォビアのせいで、同性愛者を守るといいながら、もっとも傷つけることをしてしまった、大学側の人間として。あほなカウンセラーを飼った大学側の人間として。Xさんの涙ほど苦いものはないことを、私は知っている。

*1:実は、長い話し合いのプロセスを正確に覚えているわけではない。だからこれはいい加減な記憶のもとに、つじつまをあわせた要約的再現でしかないが、この頃になると私も含め全員がかなり興奮してて、私も穏やかな話し方はしていない。はっきりって怒鳴っている。授業では一度だって怒鳴ったこともないし、温厚な教師で通っているのに、この姿を学生がみたら、どう思うだろうと、心の片隅で自分を突き放す余裕だけはあったが、とにかくこの頃には全員ぶち切れていた。