尺には尺を

今週はほんとうに疲れた。裁判物を、三つも見たからだ。しかも、ブログの内容も審問について書いているし、さらには裁判員制度を拒否すると書いている(匿名のブログなので宣言しても意味がないかもしれないが、私自身は、この宣言を絶対に守る。つま裁判員制度という、国家・司法の犯罪の共犯者に国民を仕立てあげる制度には断固反対する)。今週は裁判審問の週だった。


1)『それでもボクはやっていない』(2007年映画)周防正行夫監督、加瀬亮ほか。

痴漢冤罪事件。この映画をみると先述の私の痴漢間違われそう事件も危機一髪であったことがわかり、ぞっとした。刑事事件の裁判は真相を解明する場ではなく、被告を有罪とすする証拠を検討し判断し判決を下すのであって、この手続きのなかでは、被告が無実でも、有罪になる可能性が出てくる。いや91パーセント(だったか)の確率で被告は有罪となる。


この映画では、すぐに痴漢行為を認めた犯人は、すぐに釈放されるのに対して、無実を主張した主人公は延々と拘留され罰せられる。これはアーサー・ミラーの戯曲『るつぼ』(映画化されたタイトルは『クルーシブル』原題をカタカナにしただけ)における魔女裁判と同じ。つまり自分は悪魔にだまされていた告白すると許され、潔白を主張した者は死刑になった。事実この映画は被害者が女性で、その女性が加害者を指摘するという構図も含め、ミラーの戯曲の現代版という趣もある。


裁判は虚構の上に成立している。裁判官が作成する判決文は、あらかじめ決まっている答えにむけて事実を整合的に説明する虚構にすぎない。映画のなかで被害者は、どうみても警察に嘘を言わされていることがわかる。しかし裁判官は被害者の証言は信用できると判決文で述べる。いや映画だから、警察に圧力を加えられ大げさに緊張している被害者という演出をしているだけで、現実には裁判官は被害者を観察して述べるわけで、そこにへんな先入主なり予見がはいることはないと反論されるかもしれない。しかし映画が訴えているのは、そういうことではない。映画のなかの裁判官は被害者を一度も見ていないにもかかわらず(裁判官が交替したため)、被害者の証言は信用できるとのうのうと判決文に書くことができる。その問題点を映画は突いているのだ。


ネットには以下のようなバカが勝手な意見を述べていた。参考までに引用する。

この映画の美点は、監督の、日本の刑事裁判に対する(恐らく)激しい怒りが込められているにもかかわらず、悲壮感にとらわれず、悲観的にもなることなく、ユーモアたっぷりに描いていることだ。リベラル派の人たちは、こと体制批判となると妙に皮肉っぽくなったり、肩の力が入りすぎたりしがちであるが、この監督はそのあたりのバランス感覚に優れている

アホかお前は。リベラレル派の人たち云々という右翼ファシスト坊や、一体誰が肩の力を入れているというのじゃ、このバカ野郎。一刻も早く死ね。この糞野郎……。肩の力が入りすぎてしまった。この映画は権力に対する疑問と怒りをぶちまけている。映画に悲壮感はない。日常的リアリズムに徹している。しかし悲観的である。この映画をみて悲観的にならない人間がいたら、そいつはバカだ。しかもユーモアたっぷりだと。あほか。お前は映画を観ていない。つまり、多くの観客はこの映画が、裁判制度について、またその矛盾点や問題点を、一度痴漢に間違われたが最後には無罪になったという苦い経験をした青年の目を通して、「ユーモアたっぷり」に描いた映画だろうと予想して観にいくと、全然違うことを発見して驚くだろう。この映画はユーモアなど交えず、権力の犯罪を真っ向から見据えている。このバカは何を見て笑ったというのか。ひとつだけ主人公が暮らしていたアパートの管理人役の竹中直人が、家宅捜索に来た警察官たちに、「あいつは変な奴でしたよ」と軽口をたたくと、警察関係者が、その発言をきわめて深刻に捉えるものだが、言った管理人/竹中直人が、どぎまぎするという場面がある。権力には軽口は冗談はまったく通じないのだ。この映画はだからユーモアを武器にしていない。


したがって、裁判制度と司法の虚構性、隠れたアジェンダを暴く映画は、ユーモアはいうまでもなく、ハッピーエンドすらもみずからに許容しない。現実に対して、特定のパタンを押し付け、悪を罰して社会は改善されるという、ハッピーエンドの虚構を恥ずかしげもなく捏造する司法制度の愚劣さと欺瞞性を暴く映画は、ハッピーエンドをみずからに許すわけがない。この映画の終わりは厳しい。戦う人々がつぎつぎと倒れてゆく。主人公もまた有罪になる。そして映画をみると、もし自分が裁判所にいたら、絶対に暴れ裁判官に罵詈雑言をぶちまけるだろうと思う。映画は現実と肉体のリアルに開かれている。


加瀬亮の演技がよい味を出しているというような評価があったが、やはり着目すべきは裁判官役の小日向文世であろう。『三丁目の夕日』で光っていた小日向の悪役ぶりは、この映画では絶品の域に達している。


2)『ひばり』ジャン・アヌイ原作、蜷川幸雄演出、松たかこ主演、渋谷シアターコクーン

これは裁かれるジャンヌ・ダルクの話である。ジャンヌを助けようとする司祭と処刑しようとする検事とのやりとりのなかで、異端審問官まで登場。審問官いわく、自分が裁いているのは悪魔ではなく、人間である、と。ここまでくるとこの異端審問官は『カラマーゾフの兄弟』の大審問官さながらであるが、事実、アヌイはそれを念頭に置いていたらしい。


教会側の説得にも頑強に抵抗していたジャンヌは、ついに折れ、教会のもとにかくまわれる。こうしてジャンヌは火刑をまぬがれ、若い頃の武勇を噂されながらもいつしか忘れ去れて宮廷でくちはてる平凡な人生をたどるかにみえる。しかしその人生を予感したジャンヌは最後の力で抵抗し、火刑による死を選ぶ。


ここまでくるとカザンザキス原作で映画化された『イエスの最後の誘惑』みたいだ*1 。映画では十字架から降りたイエスマグダラのマリアとセックスをし、幸せな家庭に恵まれ、最後に孫たちに囲まれて老衰して死を迎えようとする。そのとき、ユダ(ハーヴェイ・カイテルHarvey Keitel扮する)がイエスのもとにやってきて「この裏切り者」と非難する――ここは強烈な印象を与えたところで、映画を観たら忘れることはないだろう。ユダいわく、こんなふうにのうのうと大往生するようでは、なんのために自分が裏切り者の汚名をきたのかわからなくなる、と。世界の悲惨は限りなく続いている。老衰したイエスは、こんなはずではないと、老いたわが身を責め、家の外へ這い出す。外では戦乱と略奪が終わることがない。ちがうと、イエスが叫んだ瞬間、イエスは十字架にかけられている。すべては悪魔が見せた幻影であった。事はなせりIt is accomplishedとイエスは語って死ぬ。あのイエスはウィレム・デフォーWillem Defoeが演じていた(マグダラのマリアはBarbara Herseyだった)。監督はスコセッシ。スコセッシも、昔はいい映画を作っていたものだ。


『ひばり』のジャンヌ・ダルクも、安逸な人生を辿るかにみえて、それを拒否して殉教者として死ぬことを選ぶ。火刑の準備が行なわれ、シアターコクーン全体が照明によって炎に包まれる。蜷川演出お得意の観客席を赤いライトで照らし出し、さながら観客も炎のまっただなかにいるようなイリュージョンが出現する。……しかし、それでは終わらない。で、この終わり方が曲者のなのだが、それはまたべつの機会に。


3)『愛の流刑地』(監督・脚本鶴橋康大、2007年)もまた裁判ドラマである。こう連続するとさすがにきつくなる。前2作は、裁判物としては、上質で、真摯な思考にいざなう力をもっている。開示される議論や解説は、どれも参考になる。それにくらべると『愛の流刑地』は、まだなまぬるいと思われるかもしれないが、主人公の行為を法で裁けるかという問題は解決しない。また男女の問題が公的なスキャンダルになりさらしものになる一方で、謎もあり、光と闇、明白さと不明性とが空間的表現を得ていることからも、真相の明滅に観客は引きずりこまれるだろう。


ガラスの空間。主人公の作家の仕事部屋は、三方をガラスで囲まれているような不思議な部屋で、このガラスの空間は、刑務所における面会所の空間、さらには監獄へとつながってゆくし、主人公と女性が始めて会って話をするのは京都駅のなかの喫茶店だが、そこもまたガラス張りであり、背後にはあの****が設計したという京都駅の無駄な空間の一端が垣間見える。ガラスは透明な板として、内と外を架橋する。外がよくみえるし、外からも丸見えである。しかし同時に反射光によってガラスは視線を遮断する。中からも外が見えなくなったり、外から中が見えなくなる。透過と遮断。この二重性をもつガラスの機能を最高に生かしながら、映画は進行するが、しかし、つまらない映画だったので、評価はくだせないのだが。

*1:日本語公開時タイトル『最後の誘惑』The Last Temptation of Christ (1988) .