The Making of300


たぶん20世紀も終わりかけていた頃、新しく同僚になった若い教員が、辞令をもらいに行くのを忘れていて、一時、大騒ぎになったことなどものともせず、研究室のスタッフの一員として迎え入れられて仕事を始めた頃、ある日、その新任の同僚が、助手(当時の呼び名)を連れ出して、酒を飲みながら、いろいろ話をしたなかで、助手に向かって「Aさん〔私のこと〕は、君は知らないだろうが、東京のいろいろな大学の大学院生を集めて、研究会をしていて、指導しているらしいよ」と。


その助手は、研究室のどの教官(当時の呼び名)とも親しく、教官のことを裏の裏までとはいわなくとも、いろいろ知っていたのだが、新しく同僚になった教官(当時の呼び名)から、つまりまだいろいろな事情を知らない人間から、「君は知らないだろうが」といわれて、なおかつ、それまで聞いたこともなかった新情報だったので、驚いて、あとで私に尋ねてきた。


「先生は、研究会を開催して、東京のいろいろな大学の大学院生を指導しているのですか。今度、入ったB先生が、そう言っているのですが」と。


私は、言下に否定した。「そんなことはあるわけがない。自分ところの大学院生もろくに指導する暇もないのに、またいつも大学で右往左往していて、あわただしいだけの、ほんとうにいっぱいいっぱいの教育活動のなかで、そんなよその大学の大学院生まで指導する暇はないよ」と。


助手もたしかにそうだと納得して、つぎに、なぜそんな事実無根の噂をたてられるのかと考えてくれた。事実、私は他大学の院生を指導などしていない。これはべつの人間とまちがわれているのではないかと思うのだが、そのべつの人間が誰かということについては、誤解を招くかもしれないので、ここでは書かない。ただ助手のいうには、私自身、ふだんはわかりやすい人間なのだが、学内と学外でも極端に人付き合いが少なく、その知名度と、つきあっている人間の数がきわめてアンバランスで、だから、ミステリアスな存在になっている。つまり知名度にふさわしいくらいの多くのつきあいがあると思われている。そこでありもしない交友なり付き合いをでっちあげられ、へんな噂をたてられるのではないかと分析してくれた。


私は現在の大学に変わる前には、G大学に勤務していたのだが、その頃、そのG大学に非常勤で教えに行っていた。そこの大学院生からも、G大学のC先生から聞いた話と断った上で、「先生が、東京の大学の院生たちを指導しているとうことですが、ほんとうですか」という質問を受けた。もちろん私は否定したが、同僚になったBといい、G大学のCといい、同じ事実無根の噂を現実と信じているわけで、どこかに噂の発信源があるのだが、ただBもCも、嘘を言いふらしているという意識はないようだから、事実無根のことが、真実として通用していることがわかった。


その無責任なデマの発信源はどこかを追及しても、いまとなってはしかたがないし、私自身、そんな暇などないのだが、ただこの問題が「私が東京のいろいろな大学院生を指導している」ということが、基本的に悪口として伝えられたことに着目していいだろう。


考えようによっては、他大学の大学院生の指導までするというのは、熱心な先生の証拠ともいえなくもないのだが、それが悪口になるということは、自分の大学の院生を他大学の教師が指導するということは、不愉快なことだという前提がある。


事実、そうした前提は、私にもあって、自分の院生が他大学の教員に指導されるのは、たしかに気持ちはよくない。頭にくることには、私の指導など全く無視して好き勝手なことをしているのに、他大学の教員にいろいろ言われたら、律儀に耳を傾けるという馬鹿院生がいたりすると、しかも他大学の教員のアドヴァイスが、私のアドヴァイスと同じだという場合に、ますます頭にくるのだが、たとえ指導学生は指導教員の持ち物ではないとしても、また院生にしてみれば複数の教員(自分の大学以外の教員)から指導を受けることで、最終的に自分でベストの選択をすることに意義があるのだが、わかっていても、やはり他大学の教員が院生の指導に関して口を出してくるのは、むかつく。


もちろん私は他大学の院生の指導に口を出したことはないし、また事実無根の悪意ある噂も消滅したと思うのだが、現在、英文学会の関東支部の母体となった「若手の会」というのは、それだけで、他大学の教員が院生に指導をするのをおおっぴらに認めようとするもので、それに対する反感は最初からあったとみていいだろう。


若手といっても、すでに教員になっていたり、研究者として独り立ちしている若手は、問題ない。彼ら若手が切磋琢磨する場として若手の会は貴重なものとなる。そうではなくてまだ指導教員のもとで研究をしている大学院生に対しては、それを他大学の(若手)教員が指導するというのは、問題を残しているのかもしれない。


これは皮肉な結果になる。つまり「若手の会」的な組織が、若手への熱心な指導を強化したり、活発に活動をすればするほど、自分の指導学生がレイプされるのではないかと恐れ憤慨する指導教員が増えるということである。


私は古い立場の人間かもしれないが、学会とは、教育機関ではなく、交流の場であると考えている。交流と言っても、懇親会とかそういうものではなくて、情報の交流、資料の交流、人間の交流の場であって、教育機関になってはいけないと考えている。


学会が教育機関になっても、細かな指導などできるわけがなく、かえって各教育機関における指導を妨害するおそれがある。学会は場や機会の提供者であって、教育者ではない。それがわからずに、熱心に指導しているだけでは、嫌われるだけである。いや指導するなどという、口当たりのよいものではなくなる。


ある人が私に語ってくれたことがある。「いまの関東支部は、支部長のおもちゃになっている」と。せっかく指導しても、おもちゃにしていると言われてはもともこもないが、でもそれは真実を言い当てているのではないか。