ポーシャの死


授業のときのコメントのロング・ヴァージョン。実際の授業では時間がなかったので要点だけを述べるにとどまったが、ほんとうはこれだけのことを話したかった。


『ジュリアス・シーザー』の第四幕第三場では、ポーシャの死が二度語られます。この場面、ブルータスとキャシアスが言い争からはじまり、両者共に非難がエスカレートしてきます。とそこへ詩人が突然登場して、両雄の仲たがいは困るというかたち仲裁に入る。しかし詩人は逆に、ヘボ詩を書きやがってと、二人から非難され退場させられるが、それがきっかけとなって二人とも感情が解きほぐされ、たがいに自らの非を認め、和解します。


そのときブルータスは、実は、妻のポーシャがローマで自殺をしたという知らせが入ったため、その悲しみのあまり、ひどいことを言ってすまなかったと告白する。キャシアスはポーシャの死を悲しみ、知らぬこととはいえブルータスに詫びる。そんな悲しみをかかえたブルータスと喧嘩をした自分は、よく殺されなかったものだ命拾いをしたと。


このあと二人のもとにローマから使者がやってきて、ブルータスに、奥さんのことについて何か連絡はあったかと尋ねる。ブルータスは知らぬと嘘をいう。そこで使者はポーシャの死を報告すると、ブルータスは、妻の死を平然と受け止める(すでに知っていたから、冷静さを保つことができた)。そしてこのあと眠るブルータスのもとにシーザーの亡霊が出現するというもの。


ここでポーシャの死が二回提示される。べつに問題ないと思うのだが、わたしたちが使っている教科書では、これが昔から問題になってきたと説明されている。一回でじゅうぶんで、二回も示すのは問題だということ。


こうした議論においては、改定説と、正当説とが両極を形成する。つまり少しでもおかしいところがあると、修正がおこなわれたときのミスとして説明してしまう改定説と、どのような矛盾や問題があっても、それを最初から意図されたものとして説明しようとする正当説という両極。たしかに、一見理解しがたいところ矛盾めいたところがあっても、その意味を考えることなく、ただ改訂段階のミスとして処理してしまうのは、馬鹿の証しかもしれないが、同時に、なんらかのミスなりアクシデントにもかかわらず、そこに意味を見出し難解な解釈を成立させるのも頭のいい馬鹿ということになります。


この両極は、どんな場合でもみずからの正しさを主張できます。改定説は、証拠がない。そもそも原稿が残っていないので、改定を推測するのは出版された本のなかに、運悪く/運良く、残っている痕跡をみつけたときに限られる。しかもそれが痕跡かどうかも、実は証明できない。だから逆に正しいと証明もできないけれども間違っているとも証明できないので、正しくなってしまうという事態が生ずる。いっぽう正当化説も、人間、どのような矛盾に対しても、いろいろ理屈をつけたり、なにをかを補ったりして、それを正当化できてしまう。だから、結局、どちらをとるかではなくて、その中間に真相はあるとみたほうがよいということになります。


で、今回の件ですが、しかし、これはそんなに矛盾することなのでしょうか。妻の死を前もって知っているブルータス、べつの使者からもたらされた妻の死を、はじめて聞くかのようにして対応し、平然とうけとめるブルータス。ここのどこに矛盾があるのでしょうか。妻の死を悲しみ、それが原因で、仲間と喧嘩をしてしまうという前半と、公的な指導者としての立場から、妻の死を平然とうけとめ、動揺するところを見せない後半というのは、明らかにコントラストが仕組まれ、本音と建前、みかけと真実という昔ながらの二元論でも説明がついてしまいそうです。


それだけでなく、男性のホモソーシャル集団における女性の扱い方における二面性ということでも、この場面の女性の扱い方は、典型であるような気がします。必要とされつつも、同時に、遠ざけられる女性という二面性がみてとれるのです。


『ジュリアス・シーザー』における、ブルータスとキャシアスら暗殺組みは、全員男性で、Cで始まる姓が多く、私などはCCボーイズと呼んでいるのですが、彼ら同性集団は、同性愛集団とみられないために、女性を必要とします。ブルータスは妻の死を嘆き悲しみます(たとえその嘆きは舞台上で示されることはなくても、キャシアスへの怒りというかたちで間接的に示されるのです)。彼はよき夫であり、いくらキャシアスらと親密でも、同性愛者ではないということになります。


映画『300』をみてみるといいのですが、あそこでスパルタの300人の軍人たちは、誰と戦うのかというと、ひとつは少年愛の実践者としてさげすまれるアテネ人であり、いまひとつはペルシャ軍ですが、このペルシャ軍は、レズビアン、ゲイそして身障者からなるアジア・モンスター軍団となっています。クセルクスなどは身長5メートルくらいの怪物で、しかも明らかにゲイです。このアジア・ペルシア軍は、クィアな集団として恐れられさげすまれ憎まれています。


しかし全員が着衣し鎧も身に着けているペルシャ怪物軍団(唯一の例外はクセルクスで彼は半裸の巨体をさらしています。ゲイだから)に対して、スパルタ軍は、黒い海パンのようなパンツ一枚で、あとは裸。鎧も身に着けず、その筋骨隆々たるムキムキマンの肉体を誇示しています。いったいどっちがゲイ軍団なのかとつっこみをいれたくなりますが、大丈夫です(近々日本でも公開される韓国映画のタイトルをもじれば「ゲイでも大丈夫」なのです)、スパルタの王にはお后と息子がいて、ゲイではないことになっています。お后は、主人公がゲイではないことの口実として使われているのです。300人はホモセクシュアル集団ではなく、あくまでもホモソーシャル集団だというわけです。


しかしいっぽうでそうした女性のパートナーの存在は、男性集団にとって、ゲイと誤解されないために/ゲイ的要素の隠れ蓑として、必要なのですが、また同時に、女性への過剰なこだわりは、男性どおしの絆を切り裂きかねないので、女性はそこそこ遠ざけておかねばなりません。


ブルータスの場合、ポーシャの死は、キャシアスとのいさかいを招きました。妻の死を嘆くことは当然かもしれませんが、それはまた男性のホモソーシャルの絆を断ち切ることにもなりかねません。つまり女性との関係(死別の悲しみも含む)が、男性との関係よりも優先されると、男性秩序の崩壊が生じかねないのです。


最初のポーシャの死の衝撃を乗り越えたブルータスは、彼女の死によって生じた男性間の絆の亀裂についても十分学習したはずで、そのためローマからの使者がポーシャの死の知らせを携えてきたときも、初めての聞くふりをして、その死を必要以上嘆くことなく、自らの感情をコントロールできたのです。そしてそれによって指導者たるもの、いえ軍人たるもの、女性へのこだわりによって男性秩序を乱してはならないという範を示すことにもなったのです。


結局それは、自分の感情をコントロールできたということで、つまりは女性をコントロールしたのです。ポーシャは二度死ぬといってもいいでしょう。最初は衝撃的な自殺として。そして二度目は、その衝撃性が死んだのです。