負け犬


アキ・カウリスマキ監督『街のあかり』は、『浮き雲』『過去のない男』に次ぐ三部作最後の作品とのことだが(順番に見ていかないと理解できないということはない)、しかし今日見た限りでは、『マッチ工場の少女』とペアになる、男性版という印象をうけた。


この映画の内容とは無関係かもしれないが、『街のあかり』をみて、誰もが思うことは、ヘルシンキの人たち、タバコ吸いすぎということ。主人公がヘヴィースモーカー(嗚呼懐かしい言葉だ、廃語に近いが)であるなら、それもいいのだが、ヘルシンキの人々全員がのべつまくなしタバコを吸っているのだ。ロックバンドのヴォーカルにいたっては、ギターの弦に火のついたタバコを差し込んで、煙のなかで歌っている――こういうのは昔、見たことがあるが21世紀にお目にかかるとは思わなかった。もしこれがヘルシンキの日常だったら、フィンランドEUに加盟していながら、その社会体制は、およそ先進国のそれとはいいがたい。欧米でもうからなくなったタバコ産業に食い物にされている日本でも考えられないほどの、喫煙天国いや喫煙地獄をみるにつけても、もしこれが実情なら、フィンランドは明白に途上国以下である。


もちろんこれは日常の反映というよりも意図的なものかもしれない。登場人物がのべつまくなしタバコを吸っていたかつての映画を、監督の懐古趣味によって、髣髴とさせようということか、さもなくば、タバコと対になるもうひとつのもの、そうマッチを連想させ(事実、映画のなかではライターではなくマッチでタバコに火をつけている)、そのマッチからマッチ工場の少女、そして逆に、マッチ工場の少女の男性版としての『街のあかり』の主人公へと連想の連鎖を企てているのかもしれない。


ちなみに『マッチ工場の少女』の主役で、カウリスマキ映画の常連カティ・オウティネンは、この映画では、スーパーのレジ役で、相変わらず無愛想な顔をみせる。エンドクレジットではSupermarketの何とかと書いてあったので、フィンランド語でも英語と同じスーパーマーケットということがわかる。


いっしょに観た数名からは、これは『嫌われ松子の一生』の男性版だという話もでた。たしかに主人公の男性は、理由はよくわからないが、みんなから嫌われている。みんなから無視されるというのもつらいが、みんなから一斉に嫌悪の眼で見られるというのも、つらいことが映画をみるとよくわかる。彼が嫌われている理由として、根が暗くて、みんなと打ちとけない性格なので、煙たがられているというくらいのことしか思い浮かばないが、しかし、主人公が中途半端に小柄で男前だから、いかめしい顔の男性たちから(たしかに主人公以外、みんな個性的といえば聞こえがいいが、人相が悪すぎる)毛嫌いされているのだという、うがった意見も出た。


犬が意味ありげな役をになう。パンフレットをみると、犬の名前まで書いてある。犬が重要な役をはたすという映画として『25時』『オーメン』『ウンベルトD』を挙げた者もいた。おっ『25時』、スパイク・リー監督。やばいまだ観ていなかった。購入した憶えのあるDVDを探したら、出てきた。エドワード・ノートンが犬を連れているスチールのジャケット。『オーメン』はいいとして、『ウンベルトD』、ああデ・シーカの映画。なつかしすぎるぞ。まあ今でも通用する問題作ではあろう。ただし『ウンベルトD』と今回の映画は、とくにつながることはない。『オーメン』ともつながらない。


カウリスマキ映画の魅力は、その映像が、ドゥルーズの用語を借りればアフェクティヴである点だろう。アフェクティヴとは、たとえば「悲しい」という感情があるとき、映画はそれを役者の演技によってみせる(内面の悲しさの表出)、あるいは悲しみをもたらす原因となるものを描写する(外部にある事件なり要因)ことで、観客に「悲しみ」の感情を伝達することができる。しかしアフェクティヴな効果とは、「悲しみ」について物語ったり、描写するのではなく、映像が、音声が、スクリーンが悲しみそのものとなることである。内部あるいは外部にある「悲しみさ」について語るのではなく、スクリーンの表層に悲しみを発現させることである。


悲しい出来事があると、物悲しい音楽が流れるというシークエンスの場合、よく、音楽がアフェクティヴな効果を出すのだが(音楽の場合、情動的・情緒的側面を表現しやすい)、さらに映像そのものもまたアフェクティヴな効果を出すように仕組まれるのである。主人公が泣けばいい?しかしそれは悲しみの表出であって、号泣するたたずまいは、悲しいものではないかもしれない――美しかったりするわけだから。


したがって主人公は無表情のほうが、アフェクティヴな効果は生きる。表情がありすぎると情動を演技として語ってしまうからだ。そのため無表情で、何を考えているのかわからないほうが、スクリーン全体から伝わるもの、正確にいえば、スクリーンの表層に生起するなにかが伝わりやすい。そしてこれは映画の国際的な評価とも関係がある。言葉は重要ではなくなる。むしろ言葉はアフェクティヴな効果を半減させる面があるだろう。母語話者よりも、言語を知らない観客のほうが、アフェクティヴな効果に敏感になれるわけであり、国際的な映画にまことにふさわしい効果といえる。


ちなみにいま「悲しみ」を例にあげたが、そのようにレッテルを貼れるような何かであるとすれば、映画は、そのような既存のレッテル付けされうる感情について、語ることになって、アフェクティヴ性が薄れる。無表情で無口な主人公、イメージとサウンド、そのアンサンブルのなかに情動を立ち上げようというのであるから、容易に名づけうる情動ではないし(もしそうなら、わざわざそんな手間ひまかけることはない)、まさにいわく言いがたい、独自の、独創的な、なにかが生まれる――まさに事件として。アフェクティヴな効果は、既存の情動を名指して終わるものではなく、はじめての情動の誕生の場に立ち会うといえるのである。


このことは映画の物語とも連動している。無表情で無口な主人公は、社会的にみて、いや、もっと特化すれば階級的にみて、サバルタンあるいは負け犬である。抑圧的な環境のなかで、感情の表出を阻まれ、また鬱屈して行き場がなくなった不平不満の感情をためこんだ主人の計り知れぬ内面は、イメージと音楽によって、観客に体験される。繰り返せば、それは用意にレッテルを付けられるような情動を体験することではない。それは安易な言語化とは無縁の情動である。まさにアフェクティヴな映画は、下層階級の、負け犬のものである。言語表現によってみずからの欲望と意志を表明し、それらを実現し、充足させることができる上層階級(社会の中心)とは異なり、欲望も意志も収奪された下層階級(街はずれの負け犬)こそ、アフェクティヴ効果を発動させる原動力となるからだ。この映画を通して観客が体験するのは、言葉を奪われた下層民の負け犬の情動である。街外れの情動である。


とはいえそれは怒りとか悲しみといった負の感情ではない。もちろん喜びや笑いという正の感情でもないのは、もちろんだが。カウリスマキ映画のファンが正しく楽しんでいるその飄々とした映像と物語からは、強烈な既存の情動というよりは、夢見ること野心を抱くことすら不器用な主人公の訥々とした内面と鬱屈した感情のほうが不器用な映像と音楽に転化したかたちで伝わってくる。


『マッチ工場の少女』では冒頭からの工場内での機械の大音響がアフェクティヴな効果を出して、無表情な主人公の女性の激しい怒りと悲しみをストレートに代弁するかのようだった。その激しさが、最後には、大量殺人ともいえる復讐となるのだが、『街のあかり』では、主人公は復讐しない。一度しようとして失敗したあと、主人公は復讐ではない人生を選ぶ。主人公が抱く大会社の社長になる夢は、結局、復讐の裏返しだった。くだらない夢を捨てることは、復讐で生きないという選択でもある。まさにそのとき救いが訪れる。ささやかな気付かれぬようなかたちで。そっと。