No Country for Old Men


ネット上に、『ゼア・ウィル・ビ・ブラッド』を見た感想として『ノー・カントリー』を思わせるというのがあって、それは、まさに水と「油」ほど違う、二つの映画をいっしょくたにした、なんというアホな感想かと思ったが、ふたつの映画、調べてみると、同じ地域で撮影していてることがわかった。There Will Be Bloodの撮影現場での煙が、No Countryの撮影現場のほうに流れていって、一日、撮影が中断したといこともあったらしい。両作品は同じ風景を共有している。両作品をみて、似ていると思っても、さほど、的外れの感想ではなかったようだ。


しかし、もちろん両作品は異なる。片方は、No Country for Old Menではなくて、A Country for Old Menとしたほうがいいと、ブログに書いた(まだアップしていない)が、There Will Be Bloodのほうは、まさにNo Country for Old Menとタイトルをつけてもおかしくない。


No Countryのほうは、私の苦手なノー・テンション、低血圧映画である。間が多くて、テンションが低い。通好みの映画は、むしろ、こういうノー・テンション映画だろうとと思う。当然、そこから生まれるのは、そこはかとない喜劇的パトスである。あるいはノー・テンションとは低血圧だと決めつけるのは、非論理的だが、私は気に入っている。低血圧映画なのだ。またNo Countryはボケ老人の世界である。だから、この映画がNo Country for Old Menと名づけられているのは、はなはだ残念なのだ。映画の最後、トミー・リー・ジョーンズの語りで締めくくられるが、じっと耳をそばだててたも、それはもうオチなし山ナシのグタグダの終わり方で、ただただ苦笑するしかない。実際、映画そのものが、漫才の掛け合いみたいなもので、そのテンションの低さが笑いを誘発する。暴力とか犯罪の恐怖を描いているとかいう感想があったが、犯罪とか暴力の恐怖、そんなものはNo Countryのどこにもない。徹底した喜劇として、あるいはノーテンション漫才(シュールな漫才・コントとでもいうのだろうか)であって、そこが面白いとのである。


これに対してThere Will Be Blood、これはもう私好みのハイテンション、高血圧映画で、ダニエル・デイ=ルイスの、まさに血管のブチ切れそうな高血圧の演技を堪能するしかない。冒頭のあの耳障りな音楽も、私には高血圧の人間の耳鳴りのように思えてしかたがない。そして物語りも、地下の石油が噴出するように、瞬間湯沸かし器というのは比喩が古すぎるが、まさにそのように発作的言動の暴発の連鎖として成立する。連鎖としてあるが、そこに成長はない。実際に、この映画は長い年月を扱っていて、子供は大人になり、大人は晩年を迎える。だかそこに変化はない。変貌も、成熟も、いわんや円熟もない。子供が独立して仕事始めたいというとき、それではライヴァルになるからだめだとういような親がいったいどこにいるのか。この映画には、歳をとり、自分の人生をふり返り、満たされぬ思いとかなわぬ野望を抱きながらも、悲痛な悔恨と自責の念のなかで、許しと和解を求めようとする老年は存在しない。まさに老人のいない国なのだ。


和解も円熟も拒絶するこの国には、常に対立しかなく、そして常に勝利しかない。ダニエル・デイ=ルイス扮する石油王が成功の果てに、多くのものを失う云々というような紹介があったが、この映画ではダニエルは、何も失っていないように思われる(最初のほうで小さな子供連れで説得に回るダニエルは、妻と死別したからといって同情をひくのだが、彼は妻を失っていない。最初からそんなものはいなかったし、子供も彼の子どもではないと後に判明する。喪失はまさに「客寄せ」の手段なのだ)。結局、なにひとつ失うことなく、また失っているようにみえても、最後まで、勝ち続け、勝ち組で終わるのである。


もちろん映画は負け組みのためにある。勝った者には何もやるな。しかしこの映画が、勝者を描いて単調にならないのは(単調だと感ずる向きもあるかもしれないが)、ダニエル(役名と俳優名が同じ)の圧倒的な行動=演技、そして長回しによる肉体性の徹底的な誇示によって、映画の物語そのものを崩してしまうからである。もはや物語りは、主人公の老衰と死で幕を閉じることはない。主人公はこれからも永遠に行動しつづけるだろうと思われるようなパワーが、結局、映画の物語をぐだぐだにしているのである。そこが面白い。


結局、低血圧映画いや低血糖映画といってもいいが、そのNo Countryはパワーのなさ(意図的)による物語の崩壊を招来するのに対して、これとは対照的に徹底的に高血圧・高血糖の血管が切れそうな耳鳴りがするような映画There Will Be Bloodは、しかし、そのフルスロットル・パワーによって、物語の崩壊を招来している。結局、ふたつの映画は、ぐたぐたになって終わる。ふたつの映画は、このどうみても対照的な映画は、たんに同じ風景を共有しているだけではなく、ふたつの方法で物語の瓦解を実現していたという点で、双子の兄弟だったのである(双子というと、There Will Be Bloodの最大の問題点で、ポールとイーライは最初、ふたりの人間が演ずる予定だったのが、急遽、ひとりの人間(Paul Dano)が演じて、双子という設定になった。ちょっと、ちょっと、ちょっと。これがけっこう混乱のもとになる。双子がが映画のなかで顔をあわせることもないし。その効果を考えるのは有意義だろうが、誰かがやってくれるだろう)。