つぐない


今週の月曜日5月5日に、映画『つぐない』を観た。有楽町スバル座はめったに行かない映画館だが、当日は、ほとんど満席で、女性の観客が多かった。私のすぐ横に座った中高年のご婦人二人は、席につくやいなや、せんべいをむしゃむしゃと食べ始め、映画が始まってからも、食べるのをやめず、いつしか、私が心配したように、二人は眠ってしまった。結局、映画が終わる頃には、目を覚ましたお二人だったが、なんだか全然わからない映画だったと、捨て台詞を残し、エンドクレジットが流れているまだ暗い映画館をさっさと帰って行った。


ふたりに迷惑をこうむったわけではない。それどころか、眠ってしまったため、なにがなんだかわからなくなったことに対しては同情を禁じえない。『つぐない』は、べつに難しい映画ではないが、時間が行ったり来たりするし、虚構と現実とが入り混じるから、注意してみてないと、わからなくなってしまう。寝てしまうと、完全にアウト。とはいえ私も最近映画『フィクサー』を観ていて、眠ってしまい、なにがなんだかわからないまま映画館を出ることになった。『フィクサー』はしぶすぎて眠たくなるという評価もあるが、たしかに眠たくなるような展開ではあっても、眠ってしまっては、もともこもない。どういう話しかは理解できたが、細部が何もわからない。


昨年、『ラッキー・ナンバー7』という映画を観ていて途中で眠ってしまったので途中から筋がわからなくなったが、親切な映画で、終り30分で事件をすべてただどりなおし、謎をすべて解いてくれたので、眠っていても、しっかり映画を見たという感想を抱くことができたのだが、『フィクサー』だけは、さすがにだめだ。しかたがないから、もう一度、映画館で見直すか、DVDで見直すかと迷ったあげく、アメリカ版のDVDを注文することにした。木曜日に、ようやくそれが届いた。ありがたい。



『つぐない』では、最初のほうで、キーラ・ナイトリーが着衣のまま噴水のある池にもぐって落ちた花瓶の一部を拾い上げるところがある。そのあと花瓶の一部と花束をもって建物の中に入っていくのだが、つぎに建物の内部のシーンで花束をもって歩いてくる彼女、服が濡れていない。あれ、もう乾いたのかとか、イギリスは乾燥していないので、乾きも早いのかとか、一瞬、戸惑ったが、実は、時間がもとにもどっていて、彼女が池に潜る前のところから、彼女の視点にたって出来事がもう一度、展開するということだった。くりかえすが、そのような巻き戻しは、この映画で随所にみられるが、きちんと語りとか映像で説明しているので、眠ってしまわない限り、迷うことはない。


残念ながら原作については、小山太一氏の名訳『贖罪』(新潮文庫に上下2冊で入った)をまだ読んでいないので、映画と原作の違いはわからないが、たぶん原作と映画では、力点が違うのではないかと思う。映画『つぐない』では、時間の巻き戻しと視座の転換、そして現実の不幸をあがなう虚構の映像という、映像の操作によって映像への自意識を喚起していた点で興味深いものがあった。


たとえば18歳になったブライオニー(ラモラ・ガリーが演じている)が、セシーリア(キーラ・ナイトリー)に会いに行く場面では、『パイレーツ・オヴ・カリビアン』のときのような元気のよさというか生気を欠いているキーラ・ナイトリーの姿があって、一瞬、売春婦にでもなったのか、自分の部屋(映画の中では豚小屋の隣にあった)で客をとっているしと思わせるにじゅうぶんな崩れた感じがあって、それがいいとも悪いともなんともいえないのだが、その時、客と思われたのは、休暇で帰ってきて、帰任までのつかの間の逢瀬を過ごしてる恋人のロビーであり、その場で、ブライオニーは、自分の過ちを二人に告げることになるのだが、しかし、二人の出会いは小説のなかの場面で作り話であること、ふたりに会って詫びるチャンスはなかったと晩年のブライオニー(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)は述懐するところから、私たちが観ていたのは、ブライオニーの空想であったことがわかる。しかしその空想は、たとえ、不幸な現実を補完する個人的な贖罪的虚構イメージであるとしても、同時に、その補完行為を可能にする欲望は多くの人間に共有されるていることがわかる点で、個人的・主観的かつ集団的・客観的色彩を帯びることになる。


映画のイメージはそれゆえに、時に、主観と客観、個人と集団との結節点となることがある。そのときこそ、映画が実現する、希有の映画的瞬間ともいえるし、実は、映画のイメージは最初からそのような映画的瞬間の連続であるともいるのだが、とまれ、真実と虚偽が、現実と虚構が、主観と客観が、夢と現実が、救いと絶望が、そして生と死が、交互に現われては消える、明滅的瞬間を、貴重な映画的瞬間と考えたい。


だから『つぐない』において、不満なのは、映像が、夢なのか現実なのかが、明確に区別されすぎていることである。あるいは説明があるところである。そのため明滅性が消えてしまう。説明がないと、たとえゴールデンウィークで映画館が満席になることはないにしても、強度を最高に保った映画的瞬間を実現できたのではないかと思うのだが。



そのような映画的瞬間は、残念ながら、さほど評判はよくないにしても、本日(5月11日)、テレビで放送される映画『さくらん』にも存在する。映画『さくらん』に、不満が残るのは、予告編から予想されるような雰囲気の映画にもかかわらず、その予想を十分に実現してくれていない点にある。予想を裏切るなら、それはそれで面白い。しかし予想を裏切らないがゆえに、逆に、予想のほうが先行し、予想の範囲に内容がついてこないといううらみがある。


きらびやかな遊郭の内部も、意図的にチープなきらびやかさで満たされ、それはそれでいいのだが、東信の花は、素晴らしすぎて、そのぶん全体のチープな雰囲気とはそぐわない。物語でも結局、永瀬正敏の役は、木村佳乃が死んでからはいなくなってそれで終りというのは変。菅野美穂木村佳乃の大胆な濡れ場といっても、片方の乳をもまれているだけでは、いくら意図的反復が仕組まれているとはいえ、とにかく片乳をもまれているだけでは大胆でもなければ濡れ場でもない。椎名桔平とか成宮寛貴とか、土屋アンナにからむ男性たちも、引き立て役(こけにされるだけ)で、最後に結ばれるのは番頭の安藤政信というのも、安藤政信はかっこいいが、おそらく肩透かしかもしれない。しかし最後に映画的瞬間が訪れる。


最後の場面、番頭の安藤政信といっしょに遊郭を抜け出した土屋アンナは、菜の花畑のような緑の草原をつききって、地平線を隠すように咲いている(吉野桜のような)桜の花並木のなかをふたりで歩んでゆく。そこで映画は終わる。まるでこの世のものでないような、あでやかで見事な桜という評言があったが、まさにその通りであろう。二人は最後に死んだことが暗示されるからである。


遊郭から逃れることは、連れ戻されることもあって相当な覚悟を苦難を伴う。主人公は一度遊郭を抜け出している。足が白いと女郎とばれるからと足を汚してまでして用心しながら江戸の町を逃げて、愛する男の下へ走る。しかし最後に彼女は、カジュアルな花魁姿とでもいうような着物姿で(一目で花魁とわかるような姿で)逃げ出すのである。あれは非現実的すぎる。またかりに物理的に逃れることができても、作中で何度も強調されているように、花魁、女郎は、金魚鉢の金魚であり、そこから逃れても生きてゆけないという心理的な逃亡不可能性がある。では、なぜふたりは逃れることができたのか。ほんとうは見張りなどゆるくて、いつでも逃れることができたということなのか。留意すべきは、彼女は、その日の朝、武士の家に嫁ぐことになっていた。彼女は正々堂々と遊郭を後にできた、まさにその日に逃げだすのである。もはや物理的・肉体的逃亡ではない。番頭と彼女は、桜の木の下で、おそらく心中したのである。


……この世は「苦界」だから。映画の最初のほうで、土屋アンナは「苦界(くがい)」という言葉を口にする。苦界とは「苦しみの多い、人間界」のことだが、転じて、遊女の境遇をいう。遊女の境遇の中に、人間の苦しみと地獄の境遇が集約されているのある。遊女は人間の不幸、救いのなさの象徴である。結局、遊郭に連れて来られ、まさに苦界に身を沈める主人公にとって、遊郭から出る/出られないことこそ、もっとも重要な主題系として最初から映画のなかに存在していた(そういえば、武士にもらわれて出る(菅野美穂)あるいは死ぬ・自殺する(木村佳乃)というふたつの選択肢が映画では示されていたではないか)。江戸時代において進退窮まった恋人たちにとっての選択は心中であった。その伝統を踏まえれば、最後の場面が、恋人どうし手に手をとって新しい世界へ旅立ってゆくというハッピーエンドであることは、ある種の、ナイーヴな観客向けへのめくらましであることを多くの観客は簡単に察知できるはずである。


この映画のすばらしさは、このことを、つまり最後の場面は、死んだ二人が夢見ていた/あるいは観客が不幸な二人のために用意したありえない幸福の場面であること(ちょうど海辺の青い壁の家にジェイムズ・マカヴォイとキーラ・ナイトリーがいっしょに入って行く『つぐない』の一場面のようなものであること――ちなみに、キーラ・ナイトリーはロンドンの地下鉄の中で死に、マカヴォイはダンケルクで敗血病で死ぬため、生前、ふたりは決してむすばれなかった)を、それが主観的幻想と集団的つぐない幻想とが切り結ぶような場面であることを、映画そのものが、そっと教えていることである。


映画の終わりのほう、「ご隠居」とだけ呼ばれている市川左團次遊郭のなかで、土屋アンナに抱かれて老衰で死ぬ。翌朝、その遺体が籠に乗せられて遊郭の門から出る。それをしめやかに見送る遊郭の主人(石橋蓮司)が、これじゃまるで朝帰りじゃないかと語る場面がある。粋人だったご隠居は、その死を朝帰りとして完結させた。遊郭の者たちは、その粋な死に様に気づき、思わず、籠にむかって「お大尽」と声をかけてその死を弔うのである。それは死体となって遊郭を出ることを、生きて朝帰りするのと同じことと観ようとする。死を生で置き換えているのである。


とすれば、同じことは、映画そのものがおこなっている。心中したふたりを、生きて遊郭を出て結ばれた恋人のハッピーエンドの逃避行として完結させているからである。ふたりは死んでいるが永遠に結ばれている。苦界で死んだが天国で遊んでいる、悲劇とハッピーエンド、生と死、この明滅する二重性を実現することで、この映画はかろうじて映画的瞬間を最後に生きたのではないだろうか。


いやと、反論されるかもしれない。最後の場面は石橋蓮司は、逃げた二人のことを、見つけたらぶっ殺してやると歯噛みしながら語るではないか、と。ふたりは生きて逃げたのだと。もちろん、私はその場面を覚えている。でも、死んだご隠居の朝帰りと同様、心中した二人の死体を前にして、二人が生きて遊郭から逃げていったふりを、あるいはそのように見立てて語っていると考えられないだろうか。ハッピーエンドは苦界に生きる者たちが死者に与える唯一のつぐないなのだから。