ひとりごと2

昨日は、日本英文学会のなかの他の支部はいざしらず、関東支部イスラエルのようなところで、支部支援者たち、まあシオニストたちが、みずからの正当性を主張するために、建国神話を持ち出し、自分たちが犠牲者であることを強調するのだけれども、しかし、関東支部に入っておらず、投票権をもたない会員(パレスチナ人としておこう)のことは、まったく無視しているということ述べた。


イスラエルパレスチナも、現在、深刻な状況にあるので、たとえ説明のためのものでも、比喩に使うのは不謹慎であるので、これ以上、アナロジーは使わない。


とりあず今日は、Tの大学代表会議批判に対して批判をする。つまり大学代表会議は50年以上も、日本英文学会を支配してきたという、Tの発言の悪辣さを批判したいのである。


ただし誤解のないように述べておくと、私は大学代表会議を残すことがいいとは思っていない。仮に支部体制がうまくいかないとしても大学代表会議に戻るという選択肢はない。と同時に支部体制は絶対の選択肢ではないと思っているから、別の方法を模索すべきだと考えている。私は反支部体制派だが、大学代表会議に戻すことを主張はしない。これだけははっきりさせておく。


で、その大学代表会議だが、まだできてから10年も経ったか、経たないかというところで、Tの言うように50年以上もというのは誤解を与える表現である。またTのお得意のハッタリか。


私も昔のことはよくわからないので、間違っていたら即座に訂正するが、もともと大学代表会議は評議委員会と言っていた。評議員には、博士課程をもっている英文科の代表者がなれた。その数は毎年増えていき、50名を超えるか、それに近い数になったとき、文部省から評議員の数が多いからなんとかせよと注意された。そこで、50名の評議員会を、大学代表会議として、大学代表間で選挙して評議員を数名選ぶことにしたのである。


正確に言えば、こうなる。全会員の合意なり選挙によって選ばれたのではない評議員が、英文学会設立当初から現在にいたるまで学会を50年以上支配してきた。その評議委員会が大学代表会議と名前を変えて、そこから評議員を出すようになったから10年経ったか、経たないかというところである。


さてその大学代表会議を、私が聞いた範囲では、T、前会長、関東支部に所属していた理事は、少数支配のエリート会議であると否定的に語っていた(実は、私も、この連中の価値判断に騙されて、大学代表会議をエリート会議と呼んでしまったことがあり、深く反省している)。たしかに全会員の意志を代表していないから。それは認めると同時に、支部体制推進者たちにとっては、大学代表会議を否定することと、支部体制を肯定することはセットになっていて、それがものすごく大きな問題なのだ。とにかくセットになっているから、大学代表会議はもうだめだが、いぽっう支部体制は、どんなにいびつで多くの問題なり矛盾を抱えていても、とにかくすばらしいのだ、それが唯一の選択肢なのだという硬直化したレトリックが生まれてしまうのである。


この硬直化した、いまでは腐り始めたレトリックに終止符をうつため、大学代表会議を、存続の主張はしないが、弁護したいと思う。


大学代表という少数者が、エリート意識むき出しに、ふんぞり返って、学会の運営をしているというTや、その他が持ち出す大学代表会議像は、まったく間違っている。なぜなら1)大学代表会議もしくは評議員会に決定権はないのである。決定権のない、形だけの、もしくは形骸化したというか形式的な代表なのである。2)大学代表会議もしくは評議員会というのは、学会開催校を募る場でもあって、毎年の学会はどこでするのかという大問題を、この大学代表会議=評議員会で解決していたのである。博士課程をもっている英文科であれば、全国大会開催年のために動ける教員なり学生・院生がいるから、ありがたい。これに対し、たとえば、優秀な英語英米文学の人材が集っている東京工業大学の英語教員は、数も多く、優秀で信頼もおける人たちだが(実際、英文学会の事務局員というたいへんな仕事を多くお願いしている)、しかしこの人たちに、東工大で英文学会の全国大会をお願いすることは、迷惑だろうし、教員の数は多くても、強力してくれる学生はいないだろう。そういう意味で、大学代表会議=評議員会は、学会開催の候補校の集まりということで意味があった。


支部体制推進者たちは、「残念ながら、いま日本の大学から英文科がつぎつぎと消えている状況のなかで、大学代表会議の学会開催力(こういう言葉は使っていないとしても)が弱くなってきている、もうこれからは学会は一校で開催する時代ではなく、支部が主体となって、それこそ複数校が協力して開催してもいいのでないか」という説明をしてきた。


この説明にもおかしなところがあるのだが、それは無視して、主張は、認めよう。だから大学代表会議は解散することにしていいのだが、同時に、支部体制推進者たちは、大学代表会議の代表たちが、学会開催でこれまで苦労してきたことを認めているともいえる。


そう大学代表会議は、一部のエリートが、エリート意識をくすぐられながらふんぞり返っているというようなTその他が描く姿とは違うぞ。大学代表会議には、いまでは議決権はない。たとえ年一回でも、学会の前日に全国から集まらねばならないのだ(実際、現在では大学での締め付けがきびしく学会前日の金曜日に出張することが認められなかったり、認められても出張できないことが多いのだが、欠席者も多いと同時に出席者も多いのはありがたいというか、申し訳ないと思っている)――これはけっこうたいへんである。そうして学会開催するのは名誉なことかもしれないが、同時に、たいへんなことであって議決権のない大学代表会議の代表は、学会開催に対しては血の汗を流しているのである。彼らは決してエリート意識などもっていない(なかには勝手に持っている者もいるかもしれないが)。彼らは力をもっていない。働かされるときは働かされる。実際、その年に誰を大学の代表にするのか学科内でもめることもある。こうしたことを考えるときに、大学代表会議=評議員会が、学会を少数で牛耳ってきたなどというTの発言は、あまりにも思いやりがないのではないか。実際に、この思いやりのなさは、T自身がエリート意識に染まっているとしか思えないのである。まあ、あんたのエリート意識は誰もが知るところだからあえて説明するまでもないが。


ただし大学代表会議が、全会員の意志を反映しているのではないこと、全体から見れば小数者の会議だから、対外的にも文科省的にも、これを存続させることは無理なので、解散するしかないと私は思っているが、ただ、50年以上に渡って少数支配してきたなどという思いやりのない言い方は慎んでもらいたいのである。わかっているのかT。


わかっていたら、私はここでやめる。Tも発言を撤回するのなら、ここで私はやめる。だが撤回などしないだろう。「少数派は少数派なのだ、大学代表会議は、だめだ」とTは言うだろう。だったらこっちも言ってやる。おまえがお山の大将になっている関東支部、それだって少数派だろう。関東地区の大学に勤めている英文学会員を全員組織していないのだから、お前だって少数派なんだよ。少数派の関東支部の代表に、大学代表会議が少数派でエリート支配だなどと批判などしてもらいたくない。お前にだけは批判されたくない。少数派なのに学会の本部から微々たるものでも援助金をもらっている(しかもその援助金には、支部に入っていない会員の会費もふくまれるのだ)、そんな泥棒じみたおまえには大学代表会議を批判する資格はないぞ(大学代表会議の代表にはお金は出ていない)。


大学代表会議が少数派だからだめだというのなら、関東支部も少数派だからだめでしょう(いまのままだったら制度的に全員を組織できない)。大学代表会議にも思いやりを示してくれたなら、Tが口癖のように言っているところの、がんばっている関東支部若い人たち(ちなみに関東支部を支えるのはなぜ若い人たちだけなのか不思議だが)の苦労を認めるのにやぶさかではない。私は彼らになんの恨みも憎しみもない。しかしTが、大学代表会議に思いやりを示さないのなら、私だって関東支部を支えている若い人たちにも思いやりを示すつもりはない。小数で、全員の意思を代表していない若手で勝手なことをするなと批判するしかない。(つづく)