天使と悪魔

1観光ミステリ
ダン・ブラウンの『天使と悪魔』の翻訳(越前敏弥訳、角川書店)は、ヴィジュアル愛蔵版で読むことをお勧めしたい。700ページで4700円の愛蔵版は、ハードカバーで重たくて、寝て読むのはつらいのだが、そうした欠点を補ってあまりあるよさがある。実は文庫版などの通常版をみていないで、正確にどれほどよいかわからないところもあるのだが、しかし、そのよさは愛蔵版をみているだけで、よくわかる。図版が多いのである。そしてこの図版が、読んでいると、ほんとうに助かるのだ。なぜなら、この作品は、まさに巻末の解説にもあるように「観光ミステリー」だからである。


図版は、言葉による訳注にまさる。最初のほうに「キクラデス諸島の偶像」とか「アクアバ人形」というのが出てくるが、これは仮に言葉による訳注があっても、ぴんとこないだろうが、どんなものか図版があると、逆に、細かな言葉による解説がなくても、なるほどと納得してしまうところがある(「キクラデス諸島の偶像」と「アクアバ人形」のイメージがわかる人は相当な人ですよ、ほんと)。


もちろん子供だまし以下のしょうもない図版もある。たとえば「反物質を燃料とする宇宙船」(p.100)というのは、反物質の説明をするとき、たとえばスタートレックエンタープライズ号が反物質を燃料としているという話がでてくるので、その文脈で挿絵的に提示されるのだが、だったらスタートレックエンタープライズ号のイラストでも出せばいいのだが、わけのわからない宇宙船めいたもののイラストがある。そもそも反物質は存在していないし、また反物質を使う機関を搭載した宇宙船は必ずこういうかたちになるという原理もないわけだから、全く意味のない図版である。装飾以下のものである。


こうしたへんな例が時々あるのだが、しかし反物質が低重力下での水風船のように浮かんでいるというとき、その「低重力下での水風船」の写真は、とてもありがたいし、アメリカの紙幣の模様についての話のとき、その模様をイラストで示してくれるのはやはりありがたい。


そして物語が『ダヴィンチ・コード』のときもそうだが、あちこち移動しはじめ、まさに観光ミステリーと化してゆくと、ローマの各場所の写真や建造物や美術品の写真は、ほんとうにありがたい。まさに映画をみているように鮮明に、その場所を把握できる。鍵となる場所なり建造物なり美術品について、本に鮮明なカラー写真が添えてあれば、読みながらそのつど美術の本を紐解く手間が省けるし、なにより、その場でメージが明確になる。これは実に嬉しいといわねばなるまい。繰り返すが物語が中盤以降、ローマ観光ミステリーと化すと、写真図版は絶大な威力を発揮する。図版満載の愛蔵版をおすすめしたい。


イルミナティ
最初、この本を買ったとき、イルミナティというのだからと、私はバヴァリアインゴルシュタット市の写真を探した。一枚くらいあってもいいと思ったのだが、写真はバヴァリア地方の写真も一枚もない。イルミナティといったら、バヴァリアとか、インゴルシュタットはつきものでしょう。


事実、愛蔵版の千街晶之氏の解説でも

ここに登場するイルミナティは実在の秘密結社である。厳密には「実在していた」と言うべきか。啓明結社という訳語が当てられることが多いこの結社は、一七七六年にドイツのバイエルンで生まれ、一時はかなりの勢力を誇ったものの、十年ほどで解散に追い込まれた無政府主義的集団である。しかし、現代の陰謀論者の中には、イルミナティは滅びずに勢力を伸ばし、フランス革命などの歴史的大事件の裏で暗躍したという説を唱える者がいるのも事実である。あらゆる陰謀で世界を動かす悪の集団、秘密結社の中の秘密結社――というのが、彼らにとってのイルミナティのイメージなのだ。(p.696)

とある(なお私がバヴァリアといっているのは、英語表現で、ドイツ語では上記の引用のようにバイエルンとなる)。


つまりイルミナティといえば、18世紀にバヴァリアバイエルンで結成された秘密組織であり、英文学でいうと、メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』のなかで、若き生物学者ヴィクター・フランケンシュタインが人造人間をはじめてつくるのも、インゴルシュタットの大学、まさに18世紀のイルミナティの本拠地であったわけで、そのあたりに、メアリー・シェリーの政治的メッセージもありそうなのだが。メアリ・シェリーのフランケンシュタインの怪物が、まさに自分をつくった科学者から、その名を奪って一人歩きしたように、インゴルシュタットイルミナティも、その後、世界のあらゆる陰謀の影にうごめく存在として、当初の歴史上の秘密結社から、まさに一人歩きし、暴走しているといってもいい。


だが『天使と悪魔』には、こうした基本的事実はいっさい出てこない。せいぜい、バヴァリアイルミナティが世界制服を企むという荒唐無稽なコンピュータ・ゲームのなかで、わずかに触れられているにすぎない。とるにたらないゲームとして。


解説にもあるように

実際のイルミナティの創設者が、インゴルシュタット大学の教授アダム・ヴァイスハウプトであったことは、秘密結社史に関心のある人間にとっては常識である。にもかかわらず、本書に彼の名が一度も出て来ないといことは、著者がイルミナティの名だけを確信犯的に借りたことを示す証拠ではないだろうか。(p.697)

では、なぜ、そうしたのか。答えは、『天使と悪魔』では、ガリレオイルミナティ創始者とすることで、イルミナティバチカンとの対立を通して、科学と宗教との単純な対立図式をつくろうとしたのである。宗教が科学を敵視しているというのは、それこそアメリカやイスラムの宗教原理主義勢力の頑迷固陋な姿勢ともいえるし、あるいは中学校あるいは小学校の科学史的理解であって、どちらも単純すぎる。


たとえばキリスト教と科学思想がずっと対立しつづけていたら、なぜ西洋が他の地域に先駆けて科学を発展させたのか説明がつかなくなる。むしろキリスト教と科学は、たがいに手を携えて進んできたといっていい。本書でも紹介されているように、ビッグバン説は、カトリックの修道士ジョルジュ・ルメートルハッブルよりも早く提唱したのであり、これまで著名な科学者はまた同時に敬虔なキリスト教徒でもあったし、キリスト教学校で数学も科学も教えられ、理科系の専門知識を持つ聖職者が科学教育に携わることはごくふつうにおこなわれたし、いまでもそうである。科学とキリスト教という対立、あるいは科学と宗教という二つの文化は存在しない。あるいのはひとつの文化、キリスト教によって支えられ科学を発展させてきた西洋文化なのである(これは新世俗秩序を歌いつつ、神を信ずるという、アメリカの1ドル紙幣の裏の模様そのものの姿勢であって、本書はそれを紹介しながら、その含意には沈黙している)。


そしてこの疑わしい単純すぎる対立構造を設定しておいて、あとは物語をうごかしてゆくだけである。しかも最終的に、科学にも、また宗教にも、どちらにも加担しない姿勢で終わるのだから、全体として、お安いエンターテインメントである。


本書でのイルミナティの扱いというのは、イルミナティは潜伏の達人たちの集団であり、それは隠れるのではなく、カムフラージュとして、目立たぬようまぎれること得意とするという前提のもとに、これまでずっとローマ・カトリックの内部に入りこんできた。しかし、バチカンは最終的に彼らを秘密裏に壊滅させ、その財産を没収した。しかし、最近、頭がおかしくなった司祭が、キリスト教あるいはカトリックに、世俗の人々の注意を喚起すべく陰謀をめぐらせ、イルミナティが暗躍しているかのような幻想を作り出し、アラブ系の殺し屋を雇って、バチカンが脅かされているという幻想を作り上げたのである。


ネタバレなのだが、イルミナティは、結局、本物ではなかったということで、歴史的にどうのこうのという話はすっとんでしまう。また最終的に陰謀の全貌はなかなか明かされず、その間、いろいろなものに疑惑の眼差しが向けられ、奇しくもそれが、私たちがいま抱く不安なり怒りなり悲しみなり喜びを、要するに、今現在の私たちのセンティメントを反映することになるという、いわゆる推理小説やミステリー小説のイデオロギー機能を律儀に守っているところがあって、さらに、犯人像の意外性という、もういとつのエンターテインメント的要素がそこに加味されると、初期値は単純な科学と宗教の対立なのだが、最終的に両者が相互作用し相互崩壊するという驚きが生まれる。それが観光旅行ミステリーとしての本書のさらなる面白さとなっている。


たとえばこの小説では、セルンという科学研究所とバチカン公国のふたつの空間が、それぞれ科学とカトリックの代表として登場する。どちらもエリートたちの閉じられた空間であり、どちらも、ほぼ同じような面積をもち、どちらも地上にも地下にも複雑なシステムを作り出している。つまりセルン(科学)もバチカン(宗教)も、その対立と敵対関係はみかけだけのものであって、どちらも絶対者を崇拝し、超越性を誇示しているのではないか。となるとこれは、科学と宗教という、互いに方向性の異なる勢力が角突きあわせているのではなく、ただ覇権争いをしているのではないかということになる。つまり右と左の対立というのではなく、政治姿勢にはあまり差のない二大政党が政権の座をめぐって争っているような、そんなふうに思えてくる。


宗教も科学も、どちらも宗教なのだといってもいいし、またどちらも陰謀をめぐらせているといってもいい。まず科学と宗教を単純なかたちで対立させる。そうすることによって、両者の相互依存と相互作用を示すことで意外性という驚きと喜びが生まれる。この単純なミステリーの策略のなかに、実は、最終的には、科学と宗教の相同性が浮かび上がる。そこがこのやや単純すぎるお安いミステリーの意外な面白さである。


もちろん、その代償もある。科学も宗教も、どちらも神を崇拝し、どちらも悪魔だというとき、結局は、現状維持に終わるのである。新たなこと、衝撃的なことが語られるわけではない。宗教はこのまま。科学もこのまま。まあ多少、現実の変化にも対応できるような寛容さを失わずにいれば、両者はこれからも存続するだろうという、どうでもいい、だがゆるぎなき世界観が最後に恥ずかしげもなく姿をあらわすのである。嗚呼。


付記 アメリカ空軍が開発した実験機のなかにX15というのがある。これはとても有名な機体で、B52のような大型の爆撃機に搭載され、テストパイロットが1名乗り込んだあとは、高空で母機から切り離され、ロケットエンジンで滑空して着陸する。最大速度マッハ6.7を出したという、ものすごい機体なのだが、実験機で、実用機ではない。


 このX15、かっこいい機体で、少年誌をにぎわせたものだ。横山光輝(『鉄人28号』『伊賀の影丸』『バビル三世』『三国志』)作のSF漫画に、このX15を多数搭載した航空母艦が、悪の勢力と戦いを繰り広げるというものがあった。少年パイロットたちが操縦するこのX15は空中戦をし、空母に着艦することもできた。


 もちろん現実のX15は武装などしていないし、ロケットエンジンでまっすぐ飛ぶだけの機体で、空中戦などできるはずもないのだが、月刊誌に掲載されたこの漫画を、私は、いつもわくわくして読んでいた。月刊誌には、このX15を組み立てるペーパーモデルの付録もついていたことを思い出す。現実にはありえない話だったが、子供だましとはいえ、だまされても心地よかった。


 『天使と悪魔』にはX33というアメリカの実験機が実用化された乗り物として登場する。すでに開発が中止されたX33がどんな機体だったのか、調べる前に、愛蔵版では、その図を用意してくれて助かる。いわゆるスペースシャトルに取って代わることが期待された滑空機で、ロケットエンジンで自力で大気圏外に出て、また自力で戻ってくるもので、マッハ25くらいが出る、ロケット・グライダーである。こんなものが、通常のジェット機並みに、ほいほい空を飛べるわけがない。子供だましだ。こちらは子供じゃないから、もう心地よくない。やすっぽすぎる。