ミルク
ハーヴェイ・ミルクの伝記映画、ガス・ヴァン・サント監督の『ミルク』を、シネカノン有楽町二丁目で見る。シネカノンは久しぶりで、予告編をみていたら、ふだん近所のシネコンでみているうんざりするような予告編(天使と悪魔とか、モンスターズ&エイリアンとか)とは異なり、興味深い日本映画がいっぱいあって、どれも見に行かなければという思いにかられる。
金曜日の午後の回で、一人ではなく複数で行っているのだが、金曜日のこの時間帯の有楽町にもかかわらず、人が少ないと感想を漏らす者がいる。たしかにそうだが、金曜日といっても、まだ連休中(かくいう私も、上半期は金曜日にまるまる授業がないので、連休中なのです)、それに天気が悪い。まあこんなものだと思う。いや、そもそも不景気の影響は、如実に出ていて、金曜日だからといって、どこの繁華街も人であふれているということは、いまはない。
映画について、これは誰もが感ずることで、いろいろな映画評で指摘してあることで、目新しいことではないのだが、驚きは最後のエンドクレジットのときに訪れる。伝記映画ということもあって、最後にモデルとなった当人の写真が、その後の経歴とともに紹介される。こういうときは、ふつう、実在の人物は、俳優には負けるものである。たとえばクリントイーストウッド監督の『父親たちの星条旗』では、エンドクレジットでは、モデルとなった人物たちの顔が紹介されるのだが、圧倒的に俳優たちの容貌のほうがすばらしい。いくらライアン・フィリップが地味だといっても、俳優である。モデルとなった人物(海軍の衛生兵(正式な言い方かどうかわからないが))は、いまでは思い出せないほど、貧相である。
まあ、たとえば私の伝記映画が作られたとしても(日本英文学会に巣くう権力亡者どもの不正を暴いて逆に殺された英雄というような映画になるはずだが)、映画のエンドクレジットで、俳優のあとに、私の顔が紹介されたら、観客が、実物は、こんな貧相な顔なのかとがっかりしても、それはしかたがないことだと、私は諦める。俳優じゃないのだから。しょうがないでしょう。
だが、映画『ミルク』では違った。実物のハーヴェイ・ミルクをはじめとして、関係者全員が、俳優たちに全然負けていないというか、俳優たちと同じように魅力的な人たちで、これは、かなり圧倒される。みんないい顔をして、輝いている。たしかめたかったら、ぜひ映画館で、あるいは『MILK 写真で見るハーヴィー・ミルクの生涯』(AC Books, 2009)を読んでほしい。私はすでに購入した。
付記
本日5月31日、日曜洋画劇場で、In to the Blue(2005)を放送していて、この映画は、映画館でもDVDでも見ていないので(べつに後悔もしていないのだが)、べつのことをしながら、見ていたら、ジョシュ・ブローリン、出ている。いや『ミルク』のなかで、これまでと全然印象がちがっていてわからなかったのは、ジョシュ・ブローリンだけである。映画のプログラムによると、主な出演作が『ノーカントリー』『アメリカン・ギャングスター』『インビジブル』『告発のとき』『グラインドハウス/プラネットテラー』とあって、最新作が『ブッシュ』(原題は『W』)とあるが、『ブッシュ』以外は全部見ているのだが、思い出せなかった。『ブッシュ』にしてもテレビの予告編で、ジョシュ・ブローリンがブッシュをやっているとはとても思えなかった。
実は、『ミルク』をみたあと、どうしても思い出せなかったので、『アメリカン・ギャングスター』で確認してみた。ああ、あの悪徳刑事か。そこで、思い出した。基本的にこわもてのギャングのボス・キャラで、ひげを生やした悪役面で、あちこちに出ていた。彼がそうだったのかと感慨を新たにしたが、『ミルク』におけるジョシュ・ブローリンは、ミルクを殺害する犯人であるのだが、その扱い方は決して憎悪を感じさせないものだ。
ミルクと同じ市政執行委員で、市庁舎でミルクを殺害することになるダン・ホワイトは、保守的なアイルランド移民系住民を代表し、同性愛者を深く嫌悪しているように思われるのだが、それは彼をとりまく環境がそうであって、前に3月に『ダウト』について書いたこと同じことが今回もあてはまる。つまり同性愛者を嫌悪する者は、同性愛者であり、それは自らの欲望に忠実になれない自分への自己嫌悪でもある、と。実際、ミルクは、ダン・ホワイトだけには選挙で負けたくないと敵視しているのだが、同時に、ダン・ホワイトに深く引かれているところもある。ダン・ホワイト自身、周囲の環境なり人間関係が許すならミルクと友愛関係をむすべるような可能性も垣間見える。ミルクは、同性愛者を見抜く能力がある――もっとも同性愛者は同性愛者を見抜くというのは神話だと私は思う。最初から自分が同性愛者だという明確な信号を出している者どうしが、たがいに引かれるのであって、見抜くのとは違う。で、ミルクは、ダン・ホワイトが隠れゲイだとにらんでいるところがある。べつにミルクがダン・ホワイトと愛人関係になればいいということではなく、ダン・ホワイトがみずからの欲望を認めることができたならば、悲劇はふせげたのではないだろうか。おそらくそれがこの映画のメッセージのひとつである。
ダン・ホワイトは、人を殺しておきながら、刑が軽く、簡単に釈放されたりするのだが(そこに元警官だったホワイトと、警察権力との共謀関係も見え隠れするのだが)、最終的に自殺する。それはみずからの罪の重さに耐えきれなかったともとれるが、ゲイの人間が陥りやすい自殺傾向とも連動するところがある。ミルクは、自分の恋人たちの多くが自殺していると、ゲイの人間の置かれた苦境に言及する。本編でもディエゴ・ルナ扮するミルクの愛人が自殺する。ミルクを殺したダン・ホワイトも、最終的には、ミルクの自殺した愛人たちのひとりに加えられるのかもしれないのだ。