After many a summer 1 英文科文化

After Many a Summerという本のタイトルをみて、読んでいないのだけれど、オルダス・ハクスレーの小説かと、読んでいないのに、また小説の専門家でもないのに、わかってしまう私は何なのかと、自分がわからなくなる。


日本のアマゾンはこの作品を洋書では扱っていないので、アメリカから取り寄せることにした。Kindleにすればとも思ったが、やはりじっくり読むには、書籍媒体を超えるものはない。読んでいないのは確かで、このタイトルがテニスンの詩から取られていることは知らなかったが、それにしても、どうして小説の、またオルダス・ハクスレーの専門家でもないのに、私にはわかってしまうのか。


たぶん、私が英文科の学生だった頃には、まだオルダス・ハクスレが、健在かつ重要な作家として人気があったのだと思う。筑摩の大系にも『恋愛対位法』といったような作品の翻訳が入っていた。私が学生の頃は、まだ英文学専門家とか愛好家、英文科学生たちに、よく読まれていたのだと思う。いまではハクスレーといえば『すばらしい新世界』くらいしか読まれていない。


After Many a Summerのタイトルを目にしたのは、この夏、クリストファー・イシャーウッドのA Single Manを読んでいたときだが、ほんとうになつかしい気がした。以前、このブログにも書いたが、私が学生の頃に、自分で原書を読もうとして、まず手ごろなのところからとイシャーウッドのMr Norris Changes Trainsを読んで、なんにも面白くなかったことを思い出す。高校生の頃から、ドストエフスキーとかカフカは翻訳で読んでいたので、ちょっとやそっとの小説では驚かない覚悟はできていた私も、さすがにイシャーウッドの小説の面白みはわからなかった。むつかしい小説ではない。むしろその反対だが、大学一年生の私には、英語の辞書で調べることに労力を使いすぎて、作品を鑑賞するまでにはいたらなかったかもしれない。ノリス氏、今にして思うと、類型的な人物であり、また興味深い人物なのだが、当時の私は、ノリス氏が、たんなる詐欺師以上のどういう人物なのかは、まったくわからなかったのだ。


しかし、イシャーウッド、ノリス氏、ハクスレーというのは、なんかこてこての英文学ではないだろか。一般的人気はなくても、英文学の専門家とか英文科のなかでは人気があり、現在ではほとんど忘れられている作家たち(イシャーウッドはゲイだから、いま人気はあるのだが――A Single Manも映画化されたし)。かつては英文科文化ともいえそうなものがあって、私もそれにどっぷりつかっていたのだが、いまでは、そもそも英文科がなくなって、英文科文化どころではないのだが、また教えるほうも、私に限らず、他の教員も、かつての英文科臭さを払拭するようなカリキュラムなり授業を目指しているのだが、昔のようなこてこての英文科文化というのは存在しなくなった。


韓国の英文学者で、戦前、日本に留学し、英文学を研究したある人物のことをとりあげ、研究した若い日本の英文学者の論文が、日本ではなく、韓国でえらく評判になって(論文も韓国語訳された)、その韓国の英文学者の再評価のきっかけとなった。若い日本の英文学者は、優秀な研究者だが、韓国では文化英雄的な扱いをうけているらしい。狭量な日本の英文学界では、本人を直接知っている人以外には、残念ながら無名なのだが。


その彼(あ、男性なのですが)の論文を読ませてもらった。戦前の日本の英文科の授業とかカリキュラムなどを復元している部分を読みなが、驚いたことに、戦前から続いている英文学教育は、戦後の私の世代まで続いていたことわかった。私たちは、古き良きかどうかわからないが、戦前からあった英文学文化といえるものを受け継いだ最後の世代だということもわかった。戦前からの英文学文化は、私が英文科の教員になった頃は、むしろ積極的に消される方向にあったし、私自身、そうして英文科文化の息の根をとめることに加担したともいえよう。


まあ、こんなことを考えるのも歳をとった証拠なのだが。