ストラヴィンスキー

先週土曜日には新国立劇場で、バレー公演をみたのだが、同じ土曜日には、そのあと映画館にも行ったので、とくに触れなかったのだが、ここで個人的なコメントを。


三本立て公演で、個人的には『火の鳥』が感銘深かった。よく知られている名作バレーだということではない。子供の頃の思い出とむすびついていたからだ。


私の父は、クラシック音楽のファンというか、オーディオ・マニアで、暇なときはいつもクラシックのレコードを聞いていた。狭い家だったので、その音は、家中に聞こえたのだが、父親は、まあ、モーツァルトとかベートーヴェンといった主流のクラシック音楽しか聴かない、保守的なというか、ありふれたクラシック・ファンに過ぎなかったのだが、それでも一時期、毎日のようにストラヴィンスキーを聞いてことがある。子供心にも、その音楽が、いつも聞いているクラシック音楽とは違うことくらいはわかったので、興味深く聞いていた、というか聞きながら眠っていた。眠くなったわけではなく、眠る時間だったのだ。今と違って、昔は、たいていの家庭では、親は子供の眠る時間をきちんと守っていた。だからストラヴィンスキーのバレー曲『春の祭典』と『火の鳥』と『ペトルーシュカ』の三曲は、私にとっては子守唄のような時期があった。


今回、『火の鳥』のバレーの舞台をみながら、ストラヴィンスキーの楽曲の旋律をすべて記憶していたことを改めて確認した。聞こえる曲すべてを覚えていた。長い年月を経て、よみがえってくるメロディには、少なからず感激した。また、恥ずかしながら、『火の鳥』のバレーの舞台をみるのも、これが生まれて初めてであり、その点でも感激した。


ストラヴィンスキーのバレー曲の舞台というのは、映画『シャネル&ストラヴィンスキー
(2009)でも登場する。『春の祭典』の舞台だったが、残念ながら、映画の力点は、『春の祭典』の舞台をみて憤り口論し乱闘する観客の側に置かれていて、舞台そのものは断片的であった。7年後に改訂を試みて、最後に再演して大成功をおさめるというのが映画の流れだったのだが、再演で指揮をするストラヴィンスキーの姿から、やがてシャネルとストラヴィンスキーのそれぞれの晩年の姿へと映像はスリップして、成功した『春の祭典』の舞台はみれずじまい。


ただしそれにしても初演時に観客が騒ぎ出した舞台というのは、ああいうふうだったのだろうか。初演時に憤慨した客が暴れるたというのは、よく音楽史の本にも書いてあるが、ストラヴィンスキーの場合、バレー曲としては三作目で、どういう曲かもわかっていたはずだし、バレーの舞台としても、それなり前衛的な舞台であることもわかっていたのではないか。まあ、まちがった観客を入れたということだろうか。なにしろ、ストリップ小屋に入って、女性が全裸で客に性器を見せていると憤慨するようなもので、わかっていたら最初から来ない客が、紛れ込んで憤慨したということなのだろうか。


ひょっとしたら、何も知らない人たちを、あえてストリップ小屋に招待したのではないか。最初から驚かせ、憤慨させ話題になることを狙っていたのか――映画ではストラヴィンスキーがまるででデビューする新人作曲家のように、観客の反応がどうなるのか緊張しているという設定だったが、Offending the audienceは最初から織り込み済みのことではなかったか。まあ、よくわからないのだが。


あと映画ではココ・シャネル役のアナ・ムグラリス、前に見たのがダニエル・オトゥイユと共演していた『そしてデブノーの森へ』だが、前作に比べると、役柄とはいえ、年齢が増したぶん、その魅力も増していた。


そういえばこの映画『そしてデブノーの森へ』について、アメリカの女性がネット上の感想で、中年男が若い女性とセックスするだけの映画は、途中で見るのをやめたと憤慨していたことを思い出す。確かに最初のほうは、そういう映画にみえるのだが、最後にはホロコーストも絡んできていて、予想外に主題も謎も深く、驚いた。よい映画なのだが、どうしてそのアメリカ人女性は、最後まで見なかったのだろうか。まちがってストリップ小屋に入って憤慨した客ということか。怒りんぼやよくない。もっとも彼女は、ホロコースト嫌いの右翼だったのかもしれないが。