武士の家計簿

小さな映画館なのだが、そこで私の左に隣に座った夫婦と、通路を挟んで右隣に座った女性が、どちらも私よりも年齢が上なのだが、映画が始まってからも、ポップコーンをぱりぱり、ぼりぼり、むしゃむしゃ食べている。時々バリバリ、がさがさ、ごそごという音も聞こえてくる。食べているのはポップコーンだけではないようだ。


べつに違法なことをしているわけではない。売店でポップコーンを売っているし、中にもちこんでもいいのだから。午後のこの時間帯、夕食前のこの時間帯に、むしゃむしゃ食べてたら夕食が食べられるなくなるのではという心配は、この初老の人たち(3人とも私よりも年齢が上である)には無縁のようだ。


もちろん私は映画館でポップコーンを食べたことがある。子供がいっしょだと、絶対にポップコーンを買ってくれという。中に持ち込んで食べるのは映画館で許可しているのだからいいのだが、それにしても私自身、ポップコーンをずっと食べていて回りに迷惑をかけたことはない。映画がはじまってからすぐに食べ終わるか、ゆっくり時々、ポップコーンをつまむだけで、のべつまくなし食べているのは、私の左隣のバカ夫婦だけだ。そもそもこの小さな映画館で、ポップコーンを映画がはじまって1時間たっても食べ続けているのは、おまえたちだけだ。いや、通路を挟んで、もうひとり初老の婦人(バカ女)も、むしゃむしゃ食べている。あんたらだけだぞ、この映画館で、むしゃむしゃ食べ続けて、人に迷惑をかけているのは。


私の右隣のバカ夫婦と、通路をはさんで右隣のバカ老女がいる、横の列に私がいるわけで、ああ、と嘆かずにはいられない。私はつくづく運の悪い人間だ。劇場にいくと、たいてい、よりにもよってひどい風邪に苦しんでいる男が横に座り、鼻水をすすり、咳を繰り返し、くしゃみまでする始末(私が感染しなかったのが不思議なくらいだ)。そして映画にくれば、横で、人の迷惑を顧みずに、バカ夫婦がむしゃむしゃ食べ続けている。よりにもよって、その隣に私が座っている。ブログを書けば、私の知らない、どうみても頭のおかしい男や女が、近づいてくる*1し、悪運が生まれながらに身についている私なのだ。
  ポップコン
    本気で食べる
      バカ夫婦

川柳だけれども、「ポップコン」と「バカ夫婦」という5音にめぐまれているのに、真ん中の句が、よくない。なんとかで食べるというのが、決まれば、すばらしい句になるのだが。


まあ、いずれにせよ、館内でポップコーンを食べるのはやめてほしい。大音響が広い客席にとどろき渡るロードショー館ならいざしらず。


で、バカ夫婦がつくりだす劣悪な環境(ポップコーンの音、袋を開ける音、ポップコーンやせんべいの臭い)にもかかわらず、映画に集中できたのだから、これだけでも映画のすばらしさの証明になる。


森田芳光監督の『武士の家計簿』である。


これは家計が逼迫した武士(加賀藩)が、自分の収支状況を立てなおそうとする、そのときの面白おかしい様子を描く、コメディではない。いや、たしかにそういう部分もあるが、実際それを期待するとがっかりするかもしれない*2


むしろ映画は一家族の騒動を超えて、時代と社会を、会計経理という思想あるいは倫理から照射せんとする、驚くほど骨太の映画であって、むしろ考えさせられることが多い。だからこそ、、そんなことは考えたくもないというバカ夫婦の、無意識の反感が、延々と間断なくポップコーンを食べ続けるという行為にあらわれたのだろう――迷惑したのは私と周囲の者たちなのだが。


実際、前半は「そろばん侍」の堺雅人が、藩の経理の不正を暴くことが中心で、たんに藩政に反対なのではなく、律儀に帳簿を付けているとき、数の矛盾を発見、そこから、藩の不正を暴き訴えることになるというもの。不正を暴いて感謝されるどころか、そのために能登に左遷になる(最近も大阪市で、市職員の不正を暴いた内部告発者が、不正行為を働いた職員ともども処分されるという理不尽なことが起きているが、不正を暴くと、罰せられる点、いまも昔もかわりない)。ただそのとき米騒動が起き、不正を働いていた一派が一掃され、堺雅人が、左遷武士から、一躍ヒーローに生まれ変わり重職(いまふうにいうと秘書官のようなもの)につくことになるが、ある意味、これも、偶然にすぎないところもあり*3、暗澹たる思いにかられる――不正を告発して米騒動を起こした農民は処刑されるのだ。


不正を暴く正義のそろばん、あるいは数字も、後半では、厳格で冷酷な形式主義思想へと変質を遂げる。数という厳格な体系が、前半では、不正と腐敗を断固として告発したとすれば、その同じ数が、いかなる変化も自由な試みをも峻拒する厳格な法と化してゆく。それが幕末から明治への時代の変化、安定した江戸時時代から動乱の幕末明治への変化と重なる形で提示される。


原案となった新書は、読んでいないのだが、たぶんこうした物語は、新書には書かれていなだろう。むしろそこからこうした広がりのある物語を構築した脚本を称賛したい。数という非人称の世界が、人間のよろこびも悲しみものみこんでいくため、主役は、ほんとうはシステムであり、また時代的社会的変化(時の流れ)のほうである。人物たちも、システムに従属している。とはつまり、人物の意図とは無関係に、追いやられる反復構造がそこにあるということであり、この反復構造に、「家族物語」という名称がついているのである。ここにある家族物語は、幕末明治という時代にあわせるかたちで、かなり冷厳なものである。


森田芳光監督の時代劇としては『椿三十郎』があったけれども、あれよりはこちらのほうがはるかにいい。森田監督のお得意の水平動の場面、横長のシークエンスもしっかりあり、さらに食卓シーンもある。加賀藩江戸屋敷の赤門に関する話も聞けて、満足度は高い。ポップコーンのバカ夫婦の存在が気にならなくなったほどなのだから。

*1:ちなみに、それは私の知り合いの方ではないので、誤解のないように。

*2:もうひとつ、嫁姑の対立ドラマと思うかもしれないが、そうした対立はない。そもそも嫁姑の関係は、深く掘り下げられてはおらず、表面的にはなんの対立もない。

*3:ただし不正一派への処分は、若き藩主の英断でもあり、そのことによって左遷から免れ重用された堺雅人は、この藩主への忠誠を終生忘れることはなかったように描かれているが。