自作解説

rento2006-08-11

 はじめてから1週間たったこのブログだが、なんと2週目は小説、それも官能ポルノ小説を書くことになるとは、自分でも予想できなかった展開となった。しかしこの短編、このまま放置しておくと、作者の私はたんなる変態オヤジに成り下がるので、ここであえて1日1エッセイの原則を破って、自作解説をつけておく。野暮な話なので、無理に読む必要はありません。
 なおこの項、書きかけ。修正、追加の予定あり。

 1.パロディ?
 これはある短編のパロディでもありオマージュでもあると書いた。結果的には、どちらにもなっていない中途半端なものとなり、参考にされた作者はこれを読んだら激怒するだろう。ただ悪気があったわけではない。それはアメリカ文学者で翻訳家でもある柴田元幸氏の短編集『バレンタイン』(新書館2006)の表題となっている短編「バレンタイン」である。この作品との関係を示すために「ヴァレンタイン」と表題をつけ、またこういう使い方はまちがっていることを承知のうえでbisをつけた。
 当代きっての翻訳の名手である柴田氏が小説も書くというのは驚きでもあり、また納得できることである。雑誌『大航海』に連載していたエッセイのうち小説とも読めそうなものを集めたらしいのだが、冒頭の表題作以下、いくつか書き下ろしがある。
 私の作品のなかで唯一みるべきところがあるとすれば、それは冒頭と思われる。それは柴田作品をまねたからである。柴田氏のほうがもっとあっさりして、わたしのほうがくどいけれど、この巧みな導入を真似てみて、あらためて柴田氏の表現の卓越さが納得できた。
 物語は柴田氏らしい大学の先生が、少年時代の自分の姿に出会うのだが、何度か連続して出会うちに過去の自分と会話を交わすことになる。幻想と現実が入り混じった物語というよりもノスタルジックな物語で、過去にタイムスリップして出会う自分に対するいとおしさは、小憎らしいが愛する息子との会話からえれる(息子がいなくても、想定できる)感情にもつながりつつ、現在と過去が共存する東京下町を時間都市化した空間として立ち上げる、なんとも不思議な読後感をあたえてくれる、軽くまた深い、見事な作品である。突き放した飄々とした語り口がまた実に巧みで発想の妙といい表現の巧みさといい、柴田氏が優れた翻訳家であることをあらためて実感した。
 ではなぜそのパロディめいたものを書くのかというと、これだけの材料がそろった、自分ならもっとべつのものを書くだろうと考えたからである。柴田氏の材料の料理が下手だということでは全然ない。むしろ柴田氏から、材料をもらい、さらにはこの材料はこう料理したらよいというところまで教わったのだから、イムプルーヴしようなどと畏れ多いことを考えているのではない。そうではなくてこれだけの材料を揃えてもらった柴田氏に感謝しつつ、そこからインスピレーションをもらって自分なりの物語を作ってみようとしたのである。
 街角で過去の自分にふと出会う。やがてその自分と話す。さらに少年サンデーという、私も柴田氏と同様に愛読していた少年漫画誌がある。さあ、これであなたも自分の物語をつくってごらんなさい、と、そんなふうに柴田氏から誘いかけられたようにも思われた。
 しかし同時に、この作品には隠れた欲望があるようにも思われた。それを表出させなかったところに柴田氏のこの作品の美質があると思うのだが、私にとっては、そこが不満であった。むしろこの作品の背後にうごめく欲望とは? 昭和の時代、過去の自分、少年、少年サンデー、伊賀の影丸……。わたしはそこに、明確な欲望の水脈をみたように思った。
 したがってこの作品は、私の自伝的作品である。町並みも、私が知っている町並みに変えた。少年も当然ながら過去の少年時代の私とした。と同時に、この作品は柴田作品も共有しているかもしれない隠れた欲望を顕在化させることで、文化史を構築しようともしてのである。
 柴田作品へ感謝をこめたオマージュがこの作品である。と同時に、柴田作品には隠れた下半身を露呈させた。パロディの王道は下ネタかもしれない。

 2.少年サンデーへ
 自伝的要素を退こうとするために、町並みは私が育ったところにかえた。実は、この7月の終わり、母の七回忌の法要のため一泊泊二日で帰郷した。法要の前日、ホテルでチェックインしてから昔、自分の家があったところに行ってみた。この作品はそのことを盛り込んでいる。ただし「僕」(この一人称表記は、私は嫌いだが、柴田作品にならってあえて「僕」とした。もっともそこまでしなくてもよいと柴田氏に言われそうだが)のように一人ではなく、複数の連れがいた。またあまりの暑さにゆっくり歩くこともできず、とにかく近くにあったミスタードーナッツに逃げ込んで休んでからすぐに地下鉄に乗ったのだが。
 薬局(作中の薬局は実在した。いまは存在していないが)で、雑誌を売っていたことはほんとうである。いまでもそうだが、週刊誌は書店以外のところで買うことが多いのではないか(駅のキオスクとか、コンビニとか)。柴田氏の作品のように書店で買っているのは、ある意味珍しい。私の住んでいる近くに書店はなかったが、週刊誌、漫画雑誌を売っている場所はたくさんあった。また、毎週まちきれない週刊少年漫画誌を、どおして最後の一冊になる頃に買いに行くのか。そこも不思議だった。発売日の前日に週刊誌が並ぶというのはほんとうである。待ちきれなかった私は前日に買っていた。
 ただそうなると柴田作品のように、残り最後の一冊となった少年サンデーを、過去の自分と奪い合うということができなくなる。また柴田作品では毎週同じ道をとおるうちに過去の自分と習慣的に出会えるようになるのだが、法要のついでに立ち寄った私には、そんな時間はない。だから少年が雑誌を買った薬局はすぐに消滅させて、その場で、私は少年のあとを追って、雑誌を読むことにした。私が住んでいたところに、ブランコと砂場のある遊園地はあったが、私が都合うよく少年の背後にもぐりこめるようなそんな遊園地はなかった。あとはまったく架空の出来事である。いうまでもなくセックスシーンも含めて。
 「『オバケのQ太郎』はまあどちらでもいけれど、『おそ松くん』の文学性は前よりわかるんじゃないかという気がするし、何といっても『伊賀の影丸』を僕は読んでみたくなった。」と私は書いている。これは柴田氏の文章とほとんど同じである。ただ柴田氏は『おそ松くん』を読んでみたいと書いていて、「『伊賀の影丸』の文学性」と書いているので、私は入れ替えたのである。
 『伊賀の影丸』の文学性はどうでもよかった。『伊賀の影丸』はむしろそのクィア性こそ何度も語られるべきではないだろうか。柴田作品の語り手が読みたがっている『おそ松くん』は、その強烈なナンセンス性を差し引けば、結局、『どらえもん』(『オバケのQ太郎』の作者たちによる次のヒット作品)と同様、昭和の永遠の少年時代の物語である。いっぽう私がこだわりたかった『伊賀の影丸』は、少年忍者を主人公にした時代劇漫画でもあったが、同時に見るものにクィアの欲望を強烈に掻き立てたる作品だったのだ。『おそ松くん』と『伊賀の影丸』。これが柴田作品と私の作品の違いである。

 3.横山光輝クィアな昭和史
 もし横山光輝の漫画を知らない読者が、私の作品を読んだら、さぞかしエロイかもしくは審美的な漫画であって、なにかヤオイ的な同人誌でたっぷり変形されて描かれそうな、そんな漫画を想像するかもしれない。
 しかし『魔法使いサリー』とか『コメット』さんなど少女マンガも手がけていた横山光輝の絵は、手塚治虫に影響受けた人形的な人物造形で、当時の貸本劇画系のリアルな漫画とは一線を画す、むしろ王道路線をいくメジャーな少年漫画(そして初期の少女漫画)であって、そこに官能的な要素は微塵もなかった。すくなくとも一般的な理解では。
 また手塚治虫のように物語漫画しか描かなかったから、横山漫画の興味の対象は、物語の展開であって、人物の内面的造形なり心象風景的な表現でもなかった。どちらかというと多作な職人的な大衆作家とみられていたように思う(晩年は中国の『三国志』などの長編大河漫画により評価されてはいたが)。
 だからその魅力は語りにくいのだが、およそ官能的ではないその絵が、どこかエロスをたたえるのである。官能的エロティックな男女の肉体ではなく、官能性を発散する以前の肉体のエロス、そうそれは子供〔少年少女〕の肉体のもつエロスなのだ。ある意味で隠れたペドフィリア的なエロス。あくまでも陰在化したペドフィリア。いやすでに使ってしまった、クィアな欲望、それを限りなく掻き立てる漫画だったのである。
 文庫本化された『伊賀の影丸』の一冊の解説に誰だったか、美少年忍者の影丸がピンチに陥るところが実はこの作品の隠れた魅力だったと書いているのを読んで、私の感覚が決して特殊個人的でないことを知ったのは、ずいぶん前のことである。まあそれ以後、横山光輝が昭和の漫画史に占める特異な位置というものが気になってしかたがなかった。
 私の作品では、茂みに隠れていた忍者に後ろから刺される影丸、それを読んで衝撃を受け興奮する少年時代の私、そしてそれを後ろの茂みで見つめ、少年を実際にか、空想のなかでか、抱きしめる私、その私を追ってきて、少年への性的いたずらをやめさせようとする誰か、すべてバックからの攻撃であり、そこに作為性が目立つと思われる読者もいるかもしれない。
 しかし伊賀の影丸の読者なら知っているように、また知らない読者には衝撃かもしれないが、少年忍者影丸が後ろから刺されて瀕死の重傷を負うというあの場面は、実在する。ほんとうに存在する。そして小学生の私には、その場面はあまりにも衝撃的で貧血になりそうだった。と同時に、小学生の私は知るよしもなかったのだが、あの瞬間、私は、私自身の個人史の、そしてまた昭和史の、クィアな水脈への入り口が開かれる瞬間を垣間見たのである。
 それがまさにクィアであることを暗示すべく、語り手の「僕」は幼児愛者でもあると同時に、男性どうしの性行為をエクスプリシットに描くことで男性同性愛者でもあることを示し、過去の自分への性行為がオナニーともなるということから、幼児愛、同性愛、オナニーのアマルガムとしてもクィアな欲望を描こうとしているのである。
 過去の自分が、「僕の影丸」であり、また僕自身が「影丸」でもあるというこの名前の転移は、最後に、過去の自分のほんとうの名前を明らかにして終わる。それは「正太郎」と。
 少女愛を「ロリータ・コンプレックス」といい、日本では、それを略して「ロリコン」と言っているか、少年愛を日本では、俗語表現ではあるが「ショタコン」と略していう。ショタコンとは何か。それは「ショータロー・コンプレックス」の略であり、このショータローとは、正太郎のこと。漫画『鉄人28号』の主人公で、白いシャツにネクタイとジャケット、そして半ズボンの美少年正太郎ことである。そしていうまでもなく、この『鉄人28号』の作者こそ、横山光輝であった。柴田元幸氏へのオマージュとして始まるこの作品は、故横山光輝へのオマージュとして閉じられるのである(もっともどちらも、この作品を知ったら怒るだろうな)。

付録
「だが、その店はいまはなく、隣接する区役所も中国の上海にある高層建築のような、わけのわからない未来的フォームを誇示していて、その界隈に昔の面影はなかった。」というのは、どういうイメージなのか分かりにくい読者のために、ネット上にあった画像をここに転載する。
**区役所の姿である。