書を捨て海外に出よう:日本英文学会関東支部批判2

  昨日のイギリスでの航空機テロ未遂騒ぎの影響で、お盆休みの海外出国組は成田でたいへんな混乱に遭遇したようだが、夏休みを海外で過ごせるのは、事情があって日本にいなければいけない私のような者にとっては、うらやましい限りである。
  外国の文学や文化や思想を研究する者にとって、外国との接触が絶えるのは辛い。しかし外国文学を研究していながら、海外に行けないのは辛いとは思わない馬鹿もいて、この夏休みにワークショップを開くという。この東京で。
  たとえ日本英文学会が正式の支部長と言い張っても、決定までの不透明さから暫定支部長でしかない富山太佳夫は、8月11日と18日の2回、「学術書翻訳者育成」ワークショップなるものを開催するらしい。
  一応お盆休みは、避けているようだが、どのような人物を対象にしているのだろうか。学術書翻訳者になる可能性のある若い学生、研究者、教員で、夏休みに事情があって海外に行けず日本に残っている者たちということになる。
  富山太佳夫が考えている学術書というのは、いわゆる小説、詩、戯曲という虚構文学作品ではなく英語の批評書や研究書なのだろう。たとえそのすべてではなくとしても文学作品のほとんどは、書かれた時代と風土と密接な関係がある。小説を翻訳する場合、書かれた国とか地域の雰囲気、風俗習慣、人間の立ち居振る舞いから話し方にいたるまで、実際に海外で触れてみないとわからないことが多い。しかし「学術書」の場合、内容は抽象度が高いので、現地の風俗習慣にいたる知識は必要ではない。英語表現の的確な把握力と日本語表現力があれば事足りるだろう。だから夏休みに海外に行かなくてもいい、学術書翻訳の能力に影響はないことになる。
  しかし、私は影響があると考える。外国に行って、その学術書が書かれ読まれている社会の雰囲気や生活(実生活、研究生活、学会活動、政治活動など)に触れることは、たとえ直接訳文構成力に反映されなくとも、その翻訳書全体に、あるいはその学術書の翻訳者が、それを契機に研究を続けたり、みずからの思考を形成するときに、大きな影響を及ぼすはずである。
  だが、そんな影響など目に見えない。海外に行く行かないは、学術書の場合、翻訳力に関係ないという反論もあろう。たとえば善良な一小市民であろうが、極悪人であろうが、文学創作力において差はないかもしれない。それは認めてもいい。しかし、できれば犯罪者には小説家になって欲しくはないし(犯罪者だからといってその作品の評価を下げるという話とは無関係)、小説家になるのだったら犯罪の世界から身を引いて欲しいと私は思う。
  富山のやっていることは、犯罪者のままでいいから、こうすれば小説がかけますよと手ほどきしているようなものである。
  私は富山方式で犯罪者が芸術家になるのを恐れているということではない。いや比喩が一人歩きして濫喩化してきたので、もとにもどすと、たった2回のワークショップで、学術書翻訳者が育成されるわけはない。これは富山のパフォーマンスである。育成などはなから関係はない。それは外国文学研究者でありながら、夏休みに海外にも行かないだけでなく、行けないことを残念にも思っていない一握りの愚か者たち(たとえ観光旅行でも。海外の生活の一端に触れたり、あるいは触れられなくて残念に思ったりできるわけだから貴重な他者経験となるのに、それすら拒む愚か者たち)を、育成するに足る学術書翻訳者の卵とみなすわけだから救いがたい。
  さらにいえば、ここで、富山が教えよう、翻訳術を伝授しようとする者たちは、あまりに富山太佳夫に似ていないか。
  私は富山太佳夫という支部長は、たとえ本人の知名度がいくら高くとも、制度的手続上、突然出現したので、どこから湧いたのかと、その正当性に疑問を投げかけたが、ここでも同じく、富山は、自分にそっくりな者たちに講義するわけで、ある種のオナニーであり、同時に、限りない自己正当化(外国文学研究者でありながら、海外に行かず他者経験を拒否する者だけを自分は相手にする、つまりは自分が一番偉い)であり、自分で自分の頭に王冠を載せるという、正当化できない行為をしているにすぎない。自己戴冠。ナポレオン万歳。富山太佳夫、万歳。ああ、あほらし。
  これが富山のパフォーマンス以外のなにものでもないことを示すもうひとつの証拠は、ワークショップで扱うのがサイードの『オリエンタリズム』の最初の三つのパラグラフということである。おいおい、既訳があるじゃないか。既訳を使うということは、受講生がカンニングできるからふさわしい材料ではない。おそらく富山のもくろみは、自分の訳を提示して、自分の翻訳のうまさを証明し、そのうえでサイードの文章が下手だのなんだのといって、自分がお山の大将になりたいのだろう。自己尊大かのパフォーマンス以外のなにものでもない。
  だが、サイードの『オリエンタリズム』は選ぶべきではなかっただろう。たとえばアメリカの田舎の大学都市に夏休み遊びに行っても、その大学の教員の書いた学術書をうまく翻訳できるようになるとは思わないが、サイードの翻訳の場合、一見文化史的学術書であっても、生々しい中東の現実に支えられている以上、現場に行くことは、見る目をかえ、翻訳そのものにも影響が出るだろう。よりにもよって『オリエンタリズム』を選ぶことで、夏休みに日本に残っていることの愚を痛感しないのだろうか。
 『オリエンタリズム』の冒頭は、かなりよく知られている。ベイルートについてのフランス人ジャーナリストのコメントが話題になっている。もちろん冒頭の三節はサイードの自伝あるいはレバノン、中東問題と深く関わるものではないが、しかしそれらが背後にあることは歴然としている。富山太佳夫に言いたい。偉そうにワークショップをするなら、受講生といっしょにベイルートに行けよ。南レバノンで、ヒズボライスラエル軍の戦闘を目撃するか、それに巻き込まれてこいよ。そうすれば、この他者経験は、学術書の訳文に必ずや輝きをもたらすだろう。まあ、命がけのことだから、むりにとはいわないが。頭を切り替えることぐらいはできるだろう。無理か、歳だから。