明日の記憶

 私の**がお世話になっております。心からお礼申し上げます。
 本日、私が申し上げたいことは、日ごろのお礼につきるのですが、先日来、東京都東大和市の特養ホームにおける若い男性介護人たちのよる、90歳の認知症女性に対するセクハラ発言が問題化しており、それに関連したことでございます。
 新聞やテレビの報道だけでは、詳しいことはわかりませんし、また問題は、たちの悪い若い介護人に限られるのか、その特養ホームだけがひどいところなのか、私には判断するための材料なり情報はありません。またそのようなひどいセクハラはこちらでは生じてないと思いますが、ただそれに近いことは、どこにでも潜在的にあるのではないか。その危惧の念をここで表明させていだければと思います。
 とういのも私自身の経験を申し上げれば、こちらに私の**に面会に来て、別れ際に、車椅子の**は、男性の介護人にから「さあ、これから餌でも食いに行くか」と話しかけられていて、愕然としたことがあったからです。
 どういうことかというと、その若い男性の介護人は、私の**がまるで猿回しの猿であるかのように、語りかけているのです。正確にいうとその発言を耳にしたのは、エレベーターのドアが閉まるときでした。そのときわが耳を疑いました。聞き間違いであればよいとも思いました。
 と同時に、どうしたものかと考えました。私の**は猿やペットじゃないのだから、その声のかけ方は辞めて欲しいと思いました。家族としてはとても不愉快です。しかし、同時に、こちらは人質をとられています。97歳の**です。もし私が注意なり抗議したおかげで私の**が仕返しにひどいめにあわされたらたまりません。
 しかし、黙っているのはよくないと思いました。個人的に誰も見ていないところで、その若い男性に注意するか、あるいは施設の所長に訴えるか、まあ、このふたつにひとつかと考えました。いずれにせよ、証拠がないといけない。個人的に注意するなら、現場をおさえるだけでいい。しかし所長に訴えるなら、もし相手がとりあってくれなかったら、確かな証拠として録音テープが必要かもしれないと考えました。
 ただ問題はもう少しやっかいでした。その若い男性の介護人は、人当たりもよく、またいつも勤勉に働いている好青年でした。老人を虐待しているわけではありません。ただ私の**に対して、家族からみると失礼で馬鹿にした話しかたをしているのですが、しかしそれも本当に馬鹿にしているというよりも、親しみをこめているのかもしれません。
 なるほど高齢者は、耄碌して頭の働きも鈍くなっているかもしれないし、それでいて、わがままで言うことをきかなかったり、突然笑ったり、突然きれたりと、ある意味で、動物と同じです。ペットか猿回しの猿みたいなものです。扱いにくい動物みたいなものです。だから自然とそんな言い方になってしまった。むしろ可愛いとすら思っているのかもしれないのです。
 もし私や私の家族が、認知症の親を家庭で面倒見ていたら、私のことを自分の子供としても認知してくれず、話の全く通じない老親の排泄の世話をしながら、セクハラ的発言を兄弟や子供たちとしていたかもしれません。それはある種のブラック・ユーモアであり、そうでもしなければやっていけないからです。と同時に、それはたとえ自分の親であってもしてはいけないことかもしれません。ましてや他人の介護人が……ということになります。
 ところが介護人は他人ではないかもしれません。つまりその老人の実の子供以上に、その老人の世話をしているのです。食事から排泄の世話まで。むしろ実の子供以上に、肉体的には親密な関係になっているのかもしれません。むしろ施設に親を預ける実の子供のほうが介護人から見れば他人みたいなものです。
 誤解のないように申し上げると、東大和市の特養ホームでセクハラ発言をした介護人を弁護するつもりはありません。また老人をホームに入れるのはよくないというつもりでもありません。私は**をこちらに預けているわけですから、自己否定するつもりはありません。
 ただ耄碌して死に掛かっている老人と、介護人との間に、ともすればペット動物と飼い主とか、ダッチワイフ的人形と人間という関係がむすばれてしまうのではないかということです。それは意図しなくても生じてしまう、また勤勉に介護に従事すればするほど、生じてしまう関係ではないかと思えてくるのです。
 介護のプロである皆様に、私がこんなことを申し上げるのはおこがましいのですが、介護というのは、介護をすればするほど介護の相手と親密な関係になるものだと思います。しかし、それは自分の親でも愛する人でもない。にもかかわらず、その老いた裸体をみなければいけなくなるのです。そこまでは望んでいない親密さでしょう。しかし親密さを余儀なくされる。そのため自己防衛として、介護の対象たる人間を物あるいは動物に見立てることで精神のバランスをとるということになるのかもしれません。いえ、もっといえば、それによって、親密さを緩和するかたちで、コミュニケーションをとっているということかもしれません。
 ただそれは家族の者にとっては、限りなく不愉快なことです。自分の身内の老人が、人形扱いされたり動物扱いされるのは耐え難いことです。介護される側は認知症であって、なにもわかっていないのかもしれません。また世話をホームにまかせっきりでろくに面会にも来ないのに、たまたま介護人が親密感のあらわれでペット扱いしたからといって、とやかく言うなという反論もあるかもしれません。しかしたとえ一人でも、日常的に相手を動物扱いにしていれば、すべての人間を動物扱いしかねなくなり、すべての人間を傷つけることになるのです。そこを心配するのです。
 介護のプロである皆様に、申し上げるまでもないと思いますが、老人は、耄碌して頭の働きが鈍っても気位は高いものです。また老人は昔の人ですから、親密になってもらうよりも敬意を示して欲しいと思っているのです。客観的にみて子供じみている、あるいは人間以下の動物的レヴェルにいるような老人も、気位は高いのです。老人は、若い介護人の方々と親しく接したいと同時に敬意も示して欲しいと、まあ相反する二重の欲求にとらわれているのです。むつかしいところです。しかし往々にして敬意を忘れると(たとえ相手が認知症で植物人間化していてもです)、限りない堕落と腐敗がはじまるように思えるのです。相手が敬意に対して返礼をしてくれなくても、敬意を欠いたら仕事は、犯罪に限りなく接近してゆきます。
 ところで私の**を猿扱いにしたその男性の介護人は、いまこの場に、このフロアにはおりません。私はその件があってから次に**に面会に来るとき、その介護人の話し方に注意を払い、敬意を欠いた話しかけを行っていたら、その場で、注意しようと思いました。また相手の反応によっては、主任あるいは所長に、この件で注意したことを報告すべきかどうか決めようと思いました。そして緊張して私は面会に来ました。
 するとこのフロアは配置換えがあって、メンバーがかなりかわっていて、私の知っているその男性の介護人は、私の**の担当のみならず、このフロアの担当からもはずれてしました。新しいこのフロアの主任の方から挨拶もされ、また私の**の担当の新しい女性の介護人は、やさしくかつ有能な若い女性にみえたので、この問題は忘れることにしました。数ヶ月前のことです。
 ただ、今回、東大和市の問題が起こったことをきっかけに、私のささやかな経験(誤解に満ちているかもしれませんが)をもとに、問題を提起させていただこうと思いました。失礼なことを申し上げた部分もあるかもしれませんが、どうかお許しください。悪気はまったくございません。あるのは、みなさまへの感謝の気持ちだけでございます。本日は、ありがとうございました。