おやじ狩り

  駅の近くの書店で本を買うためにレジ前に並んだ。すると私の後ろから手を延ばして、私のすぐ前のレジのテーブルの上に自分が買う本を置いたおやじがいた。店員は私の前の客の買った本にカバーをつけている。次は私の番だが、いきなり目の前の台に、後ろの客が自分の本を置いたのは、変な感じがしたが、まあ財布でも出すために、置き場所に困って私の前に置いたのだろうと気にも留めなかった。
 私の番になった。すると店員は私の前に置いている本を、私の買い物と思って手に取ったので、私は、いえ、私のほうが順番が先ですと、手に持っていた自分の本を店員に渡した。
 もちろん店員もそれで納得したのだが、お金を載せるプラスチックの皿に私に渡すつり銭を置こうとしたら、私の後ろの客が自分のお金をすでにそこに置いている。さすがに私も、なんだこのオヤジはと相手の顔をみながら、そのつり銭を直接手で受け取ったが、そのハゲおやじは、私の顔をみることなく、ただ、バスが出る時間がなくてと、なんだか独り言のようにぶつくさ言っている。
 だったら、そういえばいいだろう。バスが出そうなので、先にレジをやってもらっていいですかと、私に頼めよ。そうしたら、どうぞと、順番をゆずってやるよ。そんなこともわからないのか。このくそオヤジ。社会人とかいう言い方は、大嫌いだが、しかし、社会人だろう、おまえ。そんなことが言えなくて、どうするんだ。
 私のすぐ前の台に自分の本を置きやがって。店員がまちがってその本を手にとったとき、あ、それはちがう、わたしの本です。こちらの人が先です、くらいのことは言えよ。
 わたしのほうが、自分が先だからと自分で言ったからいいようなものの、たとえば、わたしがぼんやりしていたとか、なにか気後れして黙っていたりとか、あるいは障害者でうまく言語表現ができなくて黙っていたとしたら、店員がまちがえて、順番があとの客のレジをすませたら、おまえはどうするつもりだったのか。つまり私が、もし切れやすい暴力的な人間だったら、なんだてめ〜はということになるが、それも織り込み済みなのか。
 人間の行動は、常に自分の行動の正当性と安全性を瞬時にして計算する結果としてあるし、その計算は当然、その人間の世界観に基づいている。だから急いでいる自分がいる(本当に急いでいるのかどうか不明。自分で急いでいる、待つのは嫌だということだけかもしれないが)。そうすれば順番など無視して、先に、本を置いておけば、俺様の前の客も、俺様に敬意をはらって、無言のうちにどうぞどうぞと理由も聞かずにゆずってくれる/ゆずるべきだし、店員も、いそいでいる俺の心を汲んで、順番など無視して、俺のレジを先にすませてくれるだろう。俺の周りにいるのは、いけ好かない馬鹿ばっかだけれども、まあ俺が好きなようにやっても文句も言わないし、そもそも黙っていても俺の意を汲んでくれるべきなのだ……。
 結局、五〇年も六〇年も生きてきても、考えていることは三歳や四歳のガキとかわらなじゃないか。そもそもこれが、この無礼な馬鹿ハゲおやじ一人のことなら、それはそれでもいいが、このくそオヤジの行動のパタンは、あるいはその背後の世界観は、けっこう同じ世代の人間に共有されているぞ。だいたい五〇代後半から六〇代のこのオヤジ連中は、けっこうこういうのが多くないか。
 とはいえ、まあ、不愉快だったが、実害はないので、それはそれで忘れていた。
 今日、コンビニで弁当を買おうとしていたら、ふと目にした光景があった。レジのところで、はげオヤジが、自分で買おうとする品物一点を手に持ち、まだ前の客が清算を済ませていないのに、前の客を押し出すようにして、自分の体を押し付け、手にしていた千円札を前の客の品物がまだ並んでいるレジ前の台にうっとうしそうに置いたのだ。
 忘れていた書店でのことが、よみがえってきた。それも一段と不愉快さを増して。書店のときと同じハゲおやじだったかは定かでないが、似ているような気もした。私は自分の買物をやめた。自分のカバンの中に、使え捨て替え刃式のカッターナイフが、たまたま入っていることを知っていたから、それを確認して、そのオヤジの後をつけた。