飛べ十式
十式雷撃機という、そんな軍用機があったのを知っているだろうか。十というのは大正十年のこと。大正十年に開発されたという意味で、このほかに十式戦闘機、十式偵察機というのがある。
この十式雷撃機(以下十式とさせてもらう)は、日本で最初で最後の三葉の軍用機――三葉というのは主翼が三枚ある飛行機のこと――で、設計者はイギリス人技師、当時は雷撃機ながら戦闘機と同じかそれを凌ぐ速度が出せて、制式軍用機となる。
ただこの十式、海軍航空隊揺籃期にあらわれた試作的攻撃機で、実験的技術や先進的計思想に裏付けられていても、異端児であって、生産機数も多くなかった。
十式は、防御用の銃手をのせず、パイロットひとりで操縦と攻撃をおこなう点で、その後の三座の艦上攻撃機の設計思想とはちがっていた。第2次世界大戦で艦上攻撃機として重宝されたイギリスのフェアリー・ソードフィッシュは、当時としても時代遅れの複葉機だったが、それでも操縦士、偵察員、銃手をおく三座構成だった。ところが十式は単座。
十式の設計思想の先進性はおよそ30年後に実証される。戦後アメリカが作った攻撃機ダグラスのスカイレーダーは、パイロット一人ですべてをこなす高性能機であり、それが朝鮮戦争さらにはヴェトナム戦争で使われる。
私と母は、この十式と出逢う。私がわけもわからずにこの十式の1/50のプラモデルを買ってもらったからである。その頃の私は小学生。おそらく高価なそのプラモデルを買ってもらっても、接着剤をはみ出したまま、ぶざまに接合し、あとは日の丸のデカールを全部べたべたとはりつけて終わりという、まさに子供のお遊びで、模型製作というものとはおよそほど遠かったはずだ。当然、十式についての知識などあろうはずもない。
ただそれにしても十式とは。主翼が三枚もある。多葉機の常で、翼と翼のあいだに支柱が多い。べつに張線をしなくとも、この模型は小学生には高度すぎた。そして十式を前にして小学生とその母親には起こるべくして起こることが起きた。
私はすぐに飽きてしまったのだ。小学生の私には、翼と支柱が多いこのモデルにうんざりしはじめていた。そんな姿をみていた母は、危機感をいだいた。わがままをきいて高価なプラモデルを買ってやったのに、すぐに飽きがくるとは。もし私が母の立場だったら、同じような危機感を抱くだろう。
母はいっしょに作ろうといいだし、説明書をみながら手伝いはじめた。最初は手取り足取りして。最後には自分で作り始めた。
時間も遅くなっていた。夕飯をつくる時刻が迫っていた。しかし、それでも母は組み立て作業の手伝いをやめないのだ。「今日できることは、明日に延ばしてはいけない」とまでは母は言わなかったように記憶するが、「きりがよいところまでしなくてはいけない」と母は言ったような気がする。中途半端で終えてはいけないということである。
十式は完成した。だが、それは半分以上、母の手が加わったもので、完成した喜びはなかった。また完成した姿も、なにやら面妖で、かっこいいとも思わなかった。私はこの十式に興味を失い、完成したモデルも、壊した覚えはないが、どこかに飾れることもなく(子供の私が作ったプラモデルは、出来が悪くても両親はガラスケースに飾ってくれた)、気がついたら目の前から消えていた。
その日の午後は、私には嫌な思い出とかわっていった。
Don’t put off tomorrow what you can do today. この諺に接するたびに私は、あの日の午後を思い出した。なるほど無意味な繰り延べはよくないにしても、いたずらに早く決着をつけないことも重要ではないか。私のような不良研究者でも、あせってはよい研究ができないことは知っている。けりをつけるというお母さんの方式は、かならずしもよくないのだと、後年母をなじったこともある。
とはいえその日の午後の母は、間違った道へと迷い込みそうな私を必死になってひきもどそうとした、その必死さは私の記憶のなかに刻印されたことも確かだ。だがら母が死んだとき、そういまから6年前の夏のことだが、私は母との思い出をとどめるために、十式のプラモデルを買ってみようかと思った。
母がまだ生きていたとき、テレビのお宝探偵団にそのプラモデルが出たことがある。確実に10年以上は前のことである。私には、母といっしょにプラモデルを作らされた記憶はあったが、それがマルサンの十式雷撃機であることがわかったのは、そのテレビ番組をみたときである。そしてその絶版プラモデルには10万円の値がついた。
小学生の頃。当時、新居にひっこしてきてまだ数年もたっておらず、生活は不安定ではなかったが、まだ子供たちも幼く、将来の展望もなにもなかった、そんな一時期の家庭のなかで、小学生の私と母とが過ごした午後の一日。空回りした母のあせりと、不満しか感じ取らなかった息子の、いきちがいで終わった午後。その午後につらなる十式雷撃機のそのプラモデル。
母が、この日のことを記憶にとどめていたかどうかは、いまとなっては確かめる術はない。おそらく私にとってもこの日のことは記憶から消えてもおかしくなかった。しかしそのプラモデルをテレビで見たとき、忘れかけていたその日の記憶が、鮮やかによみがり、プラモデルの名前がわかったのだ。
そのプラモデルは、私にとって結局は幸福な一日と結びついているとわかってきた。それは母との幸福な思い出を永久に保証してくる護符のように思えた。私はそのプラモデルを買おうと思った。10万円出してもよいと思った。
*
母の死の年、私は十式のプラモデルを買おうと思った。たまたま書店でみつけた『飛行機プラモカタログ2000』(イカロス出版2000)には、「絶版品“超レア物”情報」(レオナルド横浜店に関する情報)というコーナーがあった。そこに以下の記述がみられた――「絶版品も豊富に備えているのがレオナルドの魅力。現在、横浜店にある絶版キットの中から店長オススメの逸品をいくつか紹介する。/ まずは、永遠の名機「零戦52型丙」(1/28・ミドリ)。気になるお値段は5万円。安いか高いかは、あなた次第。/つづいて、マルサンの2製品「スカウト」(1/48)と「10式艦攻」(1/48)だ。このキットについては、“値段のつけようがない”ほどの貴重品。購入希望者は、応相談とのことだ。……」(p.45)とあった。ちなみに1/48というのはまちがいだろう、当時は1/50だったはずだ。
ということはは2000年であろうが、2006年であろうが、現在、この十式は中古・絶版市場で三桁の価格がつけられていることを意味する*1。知らぬ間に、この十式は、最高値の絶版品に変貌を遂げていた。たとえ見つけても、100万円以上のお金を出すことについては躊躇があった。そう、母が生きていたら、絶対にそんなことはしてくれるなと叱責することはまちがいない。
結局私は高価なものを価値もわからず捨ててしまった愚か者だったのか。
そうかもしれないが、私は子供の頃、この手にそれを触れたことでよしとしよう。 そう、なにもわからずに、子供の頃、そのお宝キット(当時はただすこし高価なキット)を、しっかり手に触れて組み立てられたことは、幸福だったのだ。たとえ絶版品をいま買ったとしても、死ぬまで封を切ることはないだろう。死んだ母と同じように、この十式もビニール袋のなかで永眠して、私がこの手に触れることはないだろう。そのキット、私にとって永遠に失われたそのキットは、いま、そのキットに触れた私の思い出と一体化している。そしてまた母と触れたこと、母に触れていてたことの記憶とも一体化している。幸福な記憶がそのキットに凝縮しているのだ。
十式は制式海軍機とはいえ、実戦には一度も参加しなかった。配属もされなかった。だが一度も実戦に参加しなかったことは、むしろこの海軍機にとっては名誉で幸福なことではなかったか。それは戦火の空ではなく平和の空を飛んだ。母がそののヒコーキだった。母のヒコーキだった。飛べ十式。永遠に。