こんなもんじゃよ

 思い出した。
 憶えているだろうか。
 20世紀の最後の10年に、筑摩書房が「ちくま日本文学全集 全60巻」(あとで巻数は増えた)を出したことがある。この全集が異色なのは、かつて昭和の最盛期に出された数多くの文学全集とはちがって、サイズは文庫サイズ。コンパクトで、薄手のボール紙の装丁で、軽かった。そこに森鴎外から寺山修司までが一巻にひとりずつ収まっていた。全部揃えなくてかまわないように、巻数はついていなかった。
 そのなかで「富士正晴」の巻を手にとって見ると、帯の惹句に「こんなもんじゃよ、世の中はなあ」とある。
 社会に対するこうした諦観が、富士正晴の文学の特徴だとでもいいたいのか。おそらく富士正晴作品から引用であろう。たしかに引用であった。「帝国軍隊における学習・序」(昭和36年1月)という文章の最後である。

 まあ、それはそれでよかった、ボロ中のボロ、兵隊としての不屈者、役立たずを第一線に送って何になるのだろう。軍人勅諭を全文すらすらと暗誦し、梁木から飛びもしようという優秀な奴などはもちろん編成にはいっていない。助教、助手、班長あたりの会議で編成の人選がされてたのに決〔きま〕っているが、何という私意による編成、懲罰的編成であろう。それが征〔い〕ってはたちまち困るような家庭のやつに限って編成に入っている。子だくさんの炭鉱夫、水呑百姓、小商人……そうだ、生活に余裕ある連中は物質で乃木さんを、班長を、助教を、助手を丸めこむことが出来るのである。しかも、彼らは軍隊のあちこちに縁がつづいている。
 こんなもんじゃよ、世の中はなあ、と気にもせず炭鉱夫がいう。困っている者が損なくじを引くんじゃ、それが運命というもんじゃなあ。
 わたしは運命とは思わぬ。わたしは一死君恩に報じに第一線に勇躍出征という美しく勇ましい初号見出しを頭の中に思い浮べる。忠勇無双の第一線将兵。いやはや、それが懲罰であっとは! ボロ兵士の遠島流罪であったとは! それよりも、わざわざボロの兵隊を使って第一線の戦いをするのだとは! 自分らが勅諭もおぼえず、重機関銃の分解組立てもおぼろ気であり、飯盒炊さんさえろくに知らない員数だけの役立たずの兵隊であることをはっきり知っているだけに、懲罰的流罪的第一線出征の発想にわたしは全く浮き浮き陽気になるばかりの口あんぐりであった。こりゃあ、日本は敗けたなとわたしは思った。野戦行きもよかろう。わが身一つを扱えばそれでいいのだ。小うるさい連隊の中でくらすより、小うるさい地方でくらすより、どれだけ気が楽だろう*1


 誤解が生じないように、長めに引用した。最終的に語り手は諦念に達しているのだが、しかし、それは言い訳になるか、筑摩書房の編集者よ。「こんなもんじゃよ、世の中はなあ」というのは、「炭鉱夫」の言い分で、語り手は、それに同意することなく、怒り、あきれているのである。それこそが文学ではないのか。しかし筑摩書房の編集者は、意図的に、達観というか諦念の言葉を、「文学」的と感じ、コンテクストを無視して惹句に使用しているのである。なんたるチープな文学プロパガンダ。語り手の唖然とした気持ちが、私にも感染する。まさに口あんぐりであった。

*1:p.174-75