送信されなかった1通のメール

**** さま  8月23日

  実はこのメールは日曜日の夜に書くはずでしたが、日曜日はメールが多くて時間がなくなり、翌月曜日に書こうとしたところ、無責任なコメントをするよりも、もう一度じっくり読み直したほうがよいと考え、火曜日の深夜から水曜日にかけて書いている次第です。


 お久しぶりですね。すこし前までは書かれたものを送っていただいていたのですが、最近はそれもなくなり、さびしく思っているところでした。まあ、いつももらってばかりではいけないので、たまたま外出する機会があっので、書かれている雑誌を購入しました。


 ル=グウィン論、興味深く読ませていただきました。一読して、最初はなんだかよくわからないエッセイだと思いました。このエッセイをどうやってほめたらいいのか、それで悩みました。


 ひどいやつだと怒らないでください。前回のエッセイについては、私はそれをお世辞でもなんでもなく、すばらしいと思ったのですが、編集者には不評だったのですよね。その原因を考えてみると、前回、論じられていた対象について、私は予備知識ゼロでした。そのため、あなたが書かれた言葉が、すんなりと頭に中にはいってきて、読み進むうちに、どうやってまとめるのだろうかと一瞬心配になった部分もあったのですが、見事な洞察で締めくくられて、けっこう圧倒されたので、それが編集者に不評だったとは信じられませんでした。


 おそらくその編集者は前回のエッセイで論じられている対象について、その人なりに言いたいことがあって、あなたの論がその編集者の考えとかみ合わないことにがっかりしたのでしょう。つまりあなたの論に抵抗したのです。いっぽう私は予備知識ゼロでしたから、そういう抵抗はない。そのぶん、あなたの議論を澄みきった眼差しで冷静に受け止め、ああ、この人はすごいと思ったのです。私のほうが抵抗がなかったぶん、あなたの議論を正しく読み取ったのだと思います。


 で、今回、私自身、昔はル=グウィンをよく読んでいたこともあり、あなたが論じている対象については、自分なりにも意見があります。そのためあなたの議論に抵抗して、その議論の道筋がすんなり頭のなかに入ってこなかったのではないか。前回の編集者と同じく、私が抵抗体となってしまったのです。



 そこであらためて、自分の抵抗を極力減らして、あなたの書かれた文章を、丁寧にゆっくり読んでみました。そうしたら疑問もわいてきました。でもそれはあなたが何を書かれているのかわからないということではなく、書かれたことをほぼ理解できたうえで、あれか、これか、これもなのかと素朴な疑問をもちました。私のなかに抵抗は消えてなかったのですが、でも再読したときには、あなたの鋭利な洞察に、今回もやるじゃんと、あらためて感心しました。


 高校野球も終わったからといって、野球のメタファーに逃げるのは、なんだけれども、「毎回ヒットを打つのはむつかしい」と最初はごまかそうとしたのですが、再読して、今回もヒットどころかホームランじゃないかと思えてきました。まあファウルかと思ったらホームランだった。あるいは私の誤審だったかもしれない。野球のメタファーは、このくらいにして。


 あなたの議論ではル=グウィンの世界は「ふたつの相反する性質やコミュニティが、全的・円環的なものとしてひとつに統合される」ということですよね。この「統合」というのは「揺ぎなさ」ですよね。しかし同時にこの統合は、縮小・還元化、排除によって成立している。「表にある統合と、裏に隠された排除は、同時に、同じ強度で生成され保存されている」とも書かれていますよね。これはなるほどという洞察なのですが、私の中にある抵抗によって、このことも最初よくわからなかった。つまり物語内容において、対立する世界があって、これが統合される。しかし物語における統合は、それと寄り添うように負の裏の世界も存在させているということですよね。


 なぜこれがわからなかったかというと、その排除されたもの、闇の世界、裏の世界を認識し、それを回帰させることこそ、ル=グウィンの作品のテーマだったのではないかということです。つまり、私のこれまでの印象では、ル=グウィン世界における統合は、そんなにうすっぺらいものではなくて、闇を救い上げようとしている。闇を救い上げる光の右手、あるいは光を支える闇の左手、排除されたものを回帰させることこそ、物語の主要なテーマではないかと思ったのです。


 ル=グウィンに『世界の合言葉は森』という中篇があります。植民者的独裁者が支配する世界は、やがて森の世界の回帰に出会い、独裁者は破滅します。ところがあなたの議論では、この植民者独裁者の支配する世界(作品のなかでは異常事態として、最終的に崩壊することになっている世界)が、ル=グウィンの物語世界そのものであり、その物語世界の外部に排除された闇の世界があるということになる。でも私の理解では、そうした闇の世界を取り込むことは物語そのものが行なっているので、光の世界だけでなく、闇の世界を取り込む世界が、縮小、還元といわれても困るなということでした。


 しかし、あなたはラカン派あるいはジジェク派であって、つねに三つの世界で捉えているということに再読して気づきました。


 私の考えは二元論でした。1)闇と光が截然と分かたれている世界。ふたつはともに関係のない対立項。あるいは一元的世界観。しかしル=グウィンのめざす世界は、2)光と闇が互いに支えあっている世界。これは言い換えると、対立から統合へという二元論。


 しかし、あなたの場合は三つの次元がある。1)対立する世界(作品内)、2)統合された世界(作品内)、3)排除された世界(作品外)。これはラカンの言う想像界象徴界現実界という三つの次元に、正確にということではなくても、だいていあてはまりますよね。



 ただそうなると、あなたにとっての「統合された世界」というのは、政治的統合を代表とする暫定的な統合であって、真の統合ではないわけで、「統合」が安っぽくなります。あなたにとってル=グウィン世界の統合はspuriousな「統合」となります。


 でも実は、これはあなたの議論における欠陥というのではなく、すぐれたところです。というのもル=グウィンの世界の統合は、結局、貧相で、まさにworld reductionだと、あらためて気づかされたからです。ル=グウィンの統合は、「タオ」であろうが「ユング」であろうが、結局、みずから否定していながら、ヘーゲル的な弁証法止揚に収斂するものなのですが、あなたはそこに偽りの統合、最後から二番目の統合をみて、排除されたものに目を凝らそうとするのですよね。まさに弁証法嫌いのポストモダン的スタンスあるいはポストモダンサブライム的発想なのですが、そこに最初気づかなかった。


 またこの排除されたものは、ラカン的にいうと現実界であり、この現実界は、統合され閉じられた象徴界から排除されているのですが、しかし、いろいろなかたちで回帰します。そのひとつがラカンのいう対象aなのですが、この対象aは排除された現実界の影、分身でもあるのですが、ル=グウィン世界では、あなたが着目した「石」ですよね。でも先走るのはやめましょう。


 三元世界の議論は、直線時間と円環時間という二項対立のなかに振動時間という第三項を用意します。真木悠介の議論はよくわからないというか、真木悠介の議論への導入法がやや難解なのですが、ここで質問です。


 1)昼と夜とが截然と分かたれている世界が振動時間。2)昼と夜とか混ざり合うのが円環時間。3)昼と夜と交替を繰り返しながらすすんでいくのが直線時間。ですか。


 あるいは昼と夜というメタファーはわかりにくいので、あなたが使っている過去と現在というメタファーを使うと
1)過去から現在へとつづく直線的時間、2)過去と現在が対極にある振動時間、3)過去と現在とがまざりあう円環時間(現在も過去もない)(なお真木/リーチの引用で過去のもつ「深さ」がよくわからない)−−ですか。


 でもたぶんあなたの図式では1)直線時間(統合なし)2)円環時間(統合達成)3)振動時間(排除されたものの回帰)ということなのでしょうね。でも、これはあえて注文をつければ、すこし説明不足ではないでしょうか。私のように頭の悪い人間にとって。


 あなたの第四節冒頭の説明は、時間の図式ではなく、作品の図式となっているのですが、時間図式にすると1)二分法の直線時間、2)統合と排除の振動時間、3)振動する二項目をまとめる円環時間という流れにも読めます。


 あるいは議論の流れは 1)〈対立〉から〈統合〉へ、2)〈統合〉によって排除された〈闇〉へ、そして3)この〈闇〉を回帰させる高度な〈統合〉となるということですよね。ちょっと私が勝手にむりやり三段階にしてしまいましたが。


 これはつぎのベンヤミンの救済する批評についての今村仁司氏の解説を援用することによってさらに広がりをみせますよね。このへんはかなりスリリングでいいし、かっこいい。解説的な記述も、きわめて正確だし。


 ベンヤミン/今村の発想では、排除された負のものは、それをさらに分割してゆくと、そこにプラスのものがみえてくる。これはル=グウィンの発想とは異なるかもしれないけれど、しかしこの発想でル=グウィンを考察することは可能だし、可能どころかすぐれた洞察をつむぎだすこともできますよね。


 ちょっと脱線ですが、私もベンヤミンの「救済する批評」をモットーにしていたのに、忘れていたことを恥ずかしく思います。私なりの理解では、ベンヤミンの救済する批評とは、たとえば日本では靖国神社をめぐる右翼イデオロギーがありますよね。いくら保守的な日本人も、たとえば靖国神社へ行って、そこで戦争賛美展示、反戦思想の徹底した欠如、国のために命を捧げるという浮ついたロマンチシズム、他国民・他民族への配慮ゼロ、自民族中心主義の謳歌をみると、嫌悪感をもよおしたり、恥ずかしくなったりします。あれらは悪しき負の闇の存在です。しかしベンヤミン的救済する批評は、それを排除しません。そのなかにたとえファシズムや反社会的な行為の温床となるものしかないかにみえるそこに、資本主義的経済競争や格差社会肯定の風潮を断固拒否し、個人的次元を集団的次元へと転換し、未来における解放をめざすユートピア思考がみえるのです。それは、「ネガティヴなもの=闇を背景にして輝く星々の集まり」なのです。右翼思想というごみ屋敷のなかに燦然と輝く「根源の歴史」があるのです。ジェイムソンはこういっています。ユートピアイデオロギーは反対概念ではない。イデオロギー(負のもの、ネガティヴなもの)のなかにユートピアは存在する、と(『政治的無意識』最終章)。


 閑話休題。とはいえ、私の独り言も、あなたなら理解してもらえると思うのだけれど……。


 とまれ、ベンヤミンの「歴史の天使」の引用を契機に、ゲド戦記の竜のなかに「根源の歴史」をみるあなたの、力強く美しい記述によって、実質的に議論は終わりますよね。「ル=グウィンの作品における天使」ではじまる一節は、名文ですよ。ここに全部引用したいくらいだけれども、それは、ほかならぬあなたが書いた文章だから、その必要はないか。


 となると「見えぬものこそ……」の「見えぬもの」とは排除された闇の世界だし、それが回帰する「両義性のモラル」こそル=グウィンの世界の特色というのも納得できる。見えるものと見えないもの、それは「互いを互い抜きには存在しえないものとして円で繋げるようにと」とあって、これは陰陽モデルの図像ですよね。それを連想させるところも面白いし、円環とつながるのか、つながるのかつながらないのかちょっと気になるところも巧みですよね。


 なおこの最後の節で、驚いたのは宮崎吾朗の言葉。「見えぬものこそ……」という惹句はジブリの鈴木プロデューサーが考えたものということなのだけれど、鈴木プロデューサーというのは、ただの馬鹿と思っていたが、その引用を読むかぎり、宮崎吾朗のほうが、ほんとうにただの馬鹿。鈴木プロデューサーが天才にみえてきた。あのキャッチコピーから、「見えぬもの」より「見えるもの」が大事なんて、どこからそんな発想がでてくるのだ。「見えぬものこそ」映画を支えている。それがわからない宮崎吾朗、死ねばいいのに。


 質問です。「最終的にふたつの統合が起こるとき、その統合のために排除されたものは、テクストのうちに可視的に記述されたものと同じ強度を保ちながら、目に見えぬかたちで物語のなかに刻印されている」とあるのですが、具体的にどういうことでしょうか。分量的に余裕のないエッセイなので、十分に例証することができなかったのではということはよくわかりますが、でも「見えぬものより、見えるものが大事だと思うのですが……」と、ここで私は、アホの宮崎吾朗が感染したみたいなことになり、あなたが天才鈴木プロデューサーのようになってしまうのですが。


 あなたの例では「星」ですよね。もし「星」というかたちで「物語のなかに刻印されている」のなら、でもそれは「目に見えぬかたち」じゃないのだけれど、何が排除されたということではなくて、排除があったということをわからせるもの、「根源的歴史」の存在を知らせるものが、星とか竜というかたちで存在しているということですか。


 魅力的な立論と展開は、理論派の文化批評家としての、あなたの能力を遺憾なく発揮したものだと思うのですが、具体例となると、それはしかたなのないことかもしれないけれど、考察されていないのは、ちょっと残念。くりかせば、分量その他の点で、これはしかたのないことかもしれないけれど。


 また「石」の問題。結晶化の問題も、絶対に面白い指摘かと思う。それについて私自身、このコメントのなかでうまく取り込めていなくてすみません。あなたのなかでは、この問題も、当然、議論のなかの不可欠な一部なのですが、これはあなたの議論のもうひとつの中心という感じもしないわけではありません。同心円的に議論を組織しつつも、これはいまひとつの中心であり、議論の楕円化が微妙に感じ取れる部分ではないでしょうか。


 ドゥルーズの映画論で、「時間イメージ」というのがあります。時間イメージというと、時間が過去から現在、未来へと直線的に延びているようなイメージを連想するのですが、それは、ドゥルーズの用語では「運動イメージ」。ドゥルーズの時間イメージとは、過去と現在と未来が渾然一体化しているイメージであり、そこから主観と客観、幻想と現実が、不可分に、どちらがどちらかわからないかたちで混ざり合っていることを言います。ドゥルーズはさらにそれを「時間クリスタル」とか「クリスタル・イメージ」といって、鉱物的名称をつけるのですよね。これって、あなたが発見しているル=グウィンの「石」とか「結晶作用」と関係しているのかどうか、私自身にとっても思索の糧をあたえてもらいましたよ。


 最後に(先に書いたように、旅とか結晶についての、あたなたのサブプロットについてコメントできなかったことは脇において、これが最後だけれど)、統合と排除という主題は、実は、あなた自身のエクリチュールにもはねかえってくるテーマですよね。ちょっと危険な香りのするテーマです。なぜって、あなた自身の議論は統合されていても、そこから排除されたものがあるでしょう。その排除されたものは――ル=グウィンの場合のみか、あるいは一般的なことはわからないけれど――「記述されたものと同じ強度を保ちながら、……刻印されている」のですか。


 たとえばル=グウィンなんて、みんなもてはやされているけれど、統合とかなんとかいっちゃっているけれど、フェミニズムがどうのと発言しているけれど、そんなものは不毛じゃい。貧相じゃい。還元縮小化のなれのはての世界じゃ。と、ここから書こうとして、結局、統合におちついたのではないか。やたらと褒め言葉が文章のなかに多いけれども、ほんとうはつまらなかったのではないの。


 もちろんこれは私の勝手な妄想なので、そんなことがなければそれでいいのだけれども、排除されたものがあったら、教えてください。誰にも言わないので。


 今回もよい読書体験をさせてもらいました。あなたの論文が一番よかった。ほかのはみんな紋切り型の論文だった。


 気がむいたらメールください*1

*1:結局、このメールは発信されなかった。