孤独の井戸

  俳人山頭火の生まれ故郷といっても、あまり意味がないかもしれない。日本中全国を旅したわけだし、故郷に墓があるわけでもない。山頭火ラーメンは旭川に本店があるわけだけれども、旭川の地とは無関係。ただ無関係でも名前を使えるくらいだから、場所と山頭火との関係は薄い。漂白の俳人だから、特定の場所とはむすびつかないのだろう。


 本日のタイトルをみて、山頭火についての枕から、私がどこへ話をもっていこうとしているかは、山頭火に詳しい人ならすぐにわかるはず。


 種田山頭火は、山口県防府市に生まれている。防府市というのは防府天満宮のある場所。菅原道真を祀っているわけなので学問の神様。種田山頭火の生家は今は残っておらず、生家の場所を示す小さな碑だけが立っている。防府駅の北、防府天満宮から歩いて10分くらいのところにある(実際に私はそこを訪ねたことはある)。


 山頭火が十一歳のとき母親が井戸に投身自殺をする。これが山頭火にとって生涯つきまとうトラウマになったようだが、いまでこそ井戸そのものがなくなったり、井戸があっても手動あるいは電動のポンプになっていて、井戸に死の影はない。


 これは自殺ではなくて、井戸に投げ捨てられて殺された例だが、『リング』の貞子は井戸に投げ入れられて殺される。映画の最後に井戸から出てくる白衣の貞子の恐怖の姿は、それ自体、現代日本人のトラウマになった観があるが、一昔の井戸は人が死んだり殺されたりした場所だった。


 私の母は防府市に生まれている(生まれたときにはまだ市ではなかったのだが)。いまでこそ防府の駅前に放浪の姿の山頭火の像が立ち、市を代表する有名人だが、母は、戦後、結婚して防府市を離れたこともあり、長らく山頭火について知らなかったばかりか、山頭火防府市の結びつきも気づかなかった(山頭火は、19世紀生まれの人だが、全国的に有名になったのは比較的新しいのだ)。


 と同時に、おそらく母は、長らく知らなかったのだろう――自分の母親が山頭火の母親と同じように、井戸に投身自殺をしたことを。母が二歳のときである。母は末っ子であり、二歳の子供を残して自殺した母親のことについて、周囲が秘密にしたことは想像できる。二歳の頃の記憶はあろうはずもない。


 母が、私に語って聞かせた、母親(私の祖母)についての事実は、母が二歳の時、病気で死んだということだった。そのとき母は私に嘘を言っているという気配はなかった。自分の母親が自殺したとは夢にも思っていなかったはずだ。また自分を残して死んだ母親に対する複雑な思いに襲われたりもしなかったはずだ。とにかく知らなかったのだから。


 母は、最後まで、自分の母親が自殺したことを私に話さなかった。私が自分の祖母の自殺を知ったのは、伯母から話を聞いたからである。


 私の母がこのことを知っていたかどうか、定かではない。私には確証もなにもない。妹によると、母は知っていたかもしれないという。母の晩年、妹は、母に、二歳の時に死んだ自分の母親に会ってみたいかというような話をしたことがあるという。私たちが子供の頃、母は、顔すら知らない(ほんとうに写真一枚残っていないのだ)自分の母親について、周囲から聞いたことや、不可能でも会ってもみたいというようなことを、よく話してくれた。そこには死んでしまった母親に対する愛情がうかがい知れた。だから妹は、晩年の母から、べつに会いたいとも思わないという冷淡な答えが返ってきたことに驚いたという。まだ見ぬ母親に対するかつて抱いていた愛情は、晩年の母から消えていた。


 母にしてみれば、せっかく墓場までもって行った秘密を、伯母が話すことは予想外だったかもしれない。さぞかし怒り心頭に発しているかもしれない。伯母によると


 当時、母親は、いまでいう鬱病になっていたらしい。やさしくて子供思いの母だったが、その頃には父親との仲も悪くなり、夫婦の間に喧嘩がたえなかったということだ。死にたいと周囲にもらして、家庭内はかなり険悪な空気になっていた。


 ある日、母がいなくなった。隣近所で尋ねても、誰も知らない。山口県防府市中浦(なかのうら)の中ノ関というのが地名である(当時は、佐波郡)。海に面した漁村である。小さな村である。病気がちで臥せっていた母が、遠くまで出かけてゆくということは考えられない。また誰かが見ているはずである。それがどこにもみあたらない。


 まず考えられたのが、道路一つ隔てて広がる瀬戸内海である。海に呑み込まれたか溺れたか。それは覚悟の自殺だったのか。捜索は夜に入る。昭和二年の漁村の暗さである。松明や懐中電灯(があったのどうか知らないが)の限られた光で、困難な捜索が続行する。村中の者が捜索に狩り出される。そして遺体がみつかる。隣の家の庭の井戸のなかに。


 井戸から遺体を引きずり出すのは、困難をきわめたにちがいない。捜索以上に困難な作業が夜を徹して行われ、村の屈強の男たちが松明で照らされた井戸をとりかこみ、中に入って遺体を担ぐ半裸の男の体を紐でひきずりあげていた。遺体が実家にもどったときには、家族の者たちも、隣人たちも心身ともに疲労困憊していた。遺体が安置された隣の部屋には二歳の女の子が何も知らずに眠っていた。


 母(私の母)の死後、戸籍謄本を防府市役所から取り寄せることになった。私の祖母の欄の消えかかった文字に目を凝らした私は、祖母の死亡記述に、ほかの家族のそれとは異なるものをみつけた。どの家族の成員にも死亡時刻が記載されているのに、私の祖母のところだけ死亡時刻不明と書かれていたのだ。