シェイクスピア・シネマコンプレクス1

シェイクスピア・シネマコンプレクス

(しかし、それにしても、冥王星が惑星から消えた。ニール・ジョーダン監督『プルートーで朝食を』をみて感激した私はどうしたらいいのだ。まあ60年代の曲そのものにはとくに感銘はうけなかったが、詞の発想はよかったのだけれど)

以下、書いている原稿の下書き。毎日、ブログで長文のエッセイを書いているなら、ブログで書けと、編集者にいわれたので、下書きを断続的に掲載する。


イントロダクション


 一九九〇年三月二六日、第六二回アカデミー賞授賞式会場。黒澤明監督が特別名誉賞に輝いたこの日、久しぶりのシェイクスピア映画で、かつての名優ローレンス・オリヴィエのように主役と監督を兼任したケネス・ブラナーが主演男優賞と監督賞にノミネートされていた。イギリスの映画が、アメリカのアカデミー賞を受賞するのは稀で、最終的に衣装デザイン賞に輝いただけでも、映画への高い評価が窺えた――その映画とは『ヘンリー五世』。それは、ブラナー時代とも称された二〇世紀最後の十年における、シェイクスピア映画ブームの、誰もが予想だにしなかった、幕開けであった……。


●ですから、いつになったら原稿が仕上がるんですか。坂下さんだって、一五〇枚くらいの原稿がどうして書けないのか不思議がっていましたよ。


○いや、その一五〇枚だから短すぎて、どう書いていいかわからなくて……。


 その授賞式をテレビで見た私は、会場にケネス・ブラナーがいることに驚愕した。実はその年の三月、ブラナーは劇団を率いて来日しパナソニック東京グローブ座で、シェイクスピアの『夏の世の夢』と『リア王』を上演し、私は二作品とも見たばかりだったからだ。ブラナーはコンピュータ映像に違いない、アメリカならそれくらいのことはやりかねないと思った私は、ブラナーが公演の合間に日帰りで授賞式会場に赴いたことを後で知って、さらに驚いた。しかも、私はこの映画の字幕……


●ちょっと待ってください。こんなどうでもいいことを書いているから一五〇枚がすぐになくなって書きたいことも書けなくなってしまうじゃないですか。シェイクスピア映画の歴史を全部書くのはたいへんだから、二〇世紀最後の一〇年間と、現在までの時期に限らせてもらうといいましたよね。


 そもそもシェイクスピア映画は映画の歴史とともにあった。映画黎明期のサイレント映画時代、一九二〇年代の終わりまでに製作されたシェイクスピア映画はおよそ四〇〇本。映画誕生とともにまさに(第一次)シェイクスピア映画ブームも到来した。その後、第二次世界大戦後から一九六〇年代の終わりまでに、多くの優れたシェイクスピア映画が製作され、黄金期ともいえる活況を呈した。この時期の作品には、ローレンス・オリヴィエの監督主演映画(『ハムレット』『リチャード三世』、主演として『オセロ』)、オーソン・ウェルズの監督主演映画(『マクベス』『オセロ』『フォールスタッフ』)、さらには非英語文化圏におけるロシアのコジンチェフ監督のロシア語版映画(『ハムレット』『リア王』)と黒澤明監督『蜘蛛の巣城』、そして国際的なヒットとなったフランコ・ゼッフィレリ監督『ロミオとジュリエット』がふくまれる。これにつづく一九七〇年代から八〇年代の二十年間は、シェイクスピア映画の停滞期といわれている。そのなかでめぼしい作品としては、ポランスキー監督『マクベス』、黒澤明監督『乱』そしてゴダール監督『リア』を数えるのみである。そして一九九〇年代のシェイクスピア映画ブームの到来。


●八九年から現在まで何本つくられたのですか。十五、六本ですか。だったら最初から順番に論じていけばいいのでは。


○それは『シェイクスピア・アト・ザ・シネプレックス』という本がやっている。


●……じゃあ、パクリ?


○なにを言うのですが。たしかにその本はよく出来ていて参考にはしたけれど、同じじゃない。だいいち分量が一五〇枚じゃ、まねしようもない。


●また、そこですね。夏に北海道を旅行されたんですか。釧路からお土産のお菓子をいっぱい社に送っていただいて(えっ、お詫びのつもりだった?)、私ひとりじゃ、食べきれないし持ち帰れないので、みんなにおすそ分けしたら、「どうしたのって」聞かれ、「執筆者が原稿を送ってよこさずに、チョコレートを送ってきました」と説明したら、「お、そっちのほうがいいじゃん」って言う人もいるしまつ。でも、あれからもうずいぶんたちました。


○たしかに十五、六本の映画を論じるのだったその分量でできないことのほうがおかしいのだけれど、枠となる物語も欲しくて……。


シェイクスピア映画を共時的にジャンル分けする場合、一時、つぎのような三分法が知られていた。〈劇場的〉〈リアリズム的〉〈映画的〉。オリヴィエ監督・主演の映画は、舞台を髣髴とさせる作りをしていた典型的な〈劇場型〉映画、いっぽうオーソン・ウェルズ監督のシェイクスピア映画は映画そのものを前景化し、映画的欲望に支えられた斬新な映像を提供する〈映画的〉作品であった。その中間に、たとえばゼッフィレリ監督の『ロミオとジュリエット』のようなリアリズム映画があった。それは、シェイクスピア作品を小説と同じものとして映画の原作とするような、舞台からは離脱した世界を構築し、それが世紀末映画の基本となった。だが、それはまた映画表現の活性化と限界への挑戦という映画史的欲望とは無縁であり、世紀末シェイクスピア映画ブームは、一昔前のシェイクスピア映画にみられたヨーロッパ系芸術映画の伝統からも脱却し、まさにハリウッド映画になった。だがこのリアリズム映画の系譜は、舞台から最も隔たった地点で、舞台と合間見えるだろう。シェイクスピア映画ブームは、映画が舞台を発見する方向にむかっている……。


○それに実はシェイクスピア映画には隠れシェイクスピア映画と呼べるものもあって……。


 たとえば黒澤明監督『悪い奴ほどよく眠る』(一九六〇)、マカロニ・ウェスタン『西部で最悪の物語』(一九六七)、ディズニー・アニメーションの『ライオン・キング』(一九九四)、日本で大ヒットした『ムトゥ踊るマハラジャ』(一九九五)、デンマークのドグマ映画第1作トマス・ヴィンターバーグ監督『セレブレーション』(一九九八)、マーティン・スコセッシ監督『ギャング・オブ・ニューヨーク』(二〇〇一)といった映画の共通点は、何かわかるだろうか? これらはすべて『ハムレット』の翻案物である。そしてこのことは、意外と知られていない。
 子供向けアニメが名作の翻案だったり(とはいえディズニーの『バグズライフ』は黒澤明監督『七人の侍』の翻案であり、『リトルマーメイド』は『人魚姫』のみならずシェイクスピアの『テンペスト』を踏まえているが)、タミル語のローカル映画が『ハムレット』のインド版であったり、素人が手持ちビデオ・カメラで撮影していると悪口を言われるドグマ映画が第一作からシェイクスピアの翻案であり(同じドグマ映画は『キング・イズ・アライヴ』は『リア王』を演ずる映画だった)、黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』は九〇年代に発見された第三の黒澤シェイクスピア映画であることは、こうしたことすべて予想外のことであるのか、いずれも日本では無用の抑圧された知として留まりつづけている……。


●なるほど、こうした作品について語りはじめたらきりがないですね。でも考え方を変えれば、材料はやまほどあるということで。理論的にもアダプテーション問題を取り上げるということでしたね。……材料も、理論もそろっているんだから、早く書けよ、おまえ。材料が多すぎて、書けないですって? またそこですね。


 そういえば、この前、知らないうちに翻訳者がべつの人間に代わっていたといって、かなり落ち込んでいましたよね


○そう、長い時間かかってほとんど翻訳ができてないというならわかるけれども、八割、九割完成してたんだから、なんで交代させられるんだ。出版社を訴えてやる。呪ってやる、あのくそばか編集者を……。


●ちょっとそれは、常識では理解できない、ひどい話のように思えるし、うちじゃそんなことはしませんが、でも結局、自業自得じゃないですか。それに私も編集者ですから、自分の責任を棚にあげて、そういう罵倒の言葉は不愉快です。やめてもらいます。え、わら人形を用意しているですって、むこうの編集者だって、わら人形で呪っていて、先生が、いままで生きてこられただけでも幸せと思うべきです。でも、あんなに落ち込んで、その反動であんなに発奮していたのに、結局、まだ完成していない。


○構想はもちろんできていて、これが巻頭のエピグラフ、あと目次も、ほらできているでしょ。


●このエピグラフの最後の『エレファント』っていうのは、高校生が銃を乱射するドキュメンタリー風の映画ですか?このエピグラフの意味は?シェイクスピアの台詞?『マクベス』の有名な台詞なんですか


○それと目次をみてもらえればわかるように、全体がシネコンになっている。第何章とせずに、シアター1とか2とか書いてあるでしょ。読者=観客は、どこから入ってもいい。そして巻末にある「コンセッション」。シネコンにある売店のことで、読者は、そこでシェイクスピア劇の粗筋を手に入れたり、九〇年代から現在までのシェイクスピア映画のガイドを手に入れたり、作品目録、俳優とか監督の生年月日まで書いてある索引がついていたりと、サービスする場になっている。


●まあ生年月日なんて、ネット上のIMDb(The Internet Movie Database)ですぐにわかりますけどね。


○……


●しかし、そういう小細工だけには、頭が働いて、肝心な本文には頭が働かないなんて。これはお願いしている仕事ではなくて、書きたいと言ったのは先生のほうなんですからね。書く意気込みがあったわけでしょ。最近ではシェイクスピア映画研究は活況を呈していて、シェイクスピア映画学が誕生している。まあそんなもの読者は興味ないでしょうけど、でも、その一端を紹介し、その成果を踏まえると意気込んでたでしょう。


○映画をめぐる言説は、世界中で高いレヴェルに達している。もちろん相変わらずのフォルマリズムに終始している国もある。映画作品の形式分析ができない人間はバカだけれども、形式分析しかしない人間はもっとバカだというのが私の持論なんだけれど、それはシェイクスピア映画をめぐる日本の言説にはまったく無縁。ここにこんな本があるでしょう。このページを見ると著者は、デレク・ジャーマンの『テンペスト』などは、前衛的すぎて保守的な自分には向いていないとかなんとか書いている。堂々と偉そうに自分の愚かさを喧伝している。デレク・ジャーマンが嫌いでも保守的でもかまわない。そんなことはふつうだったら問題じゃない。でも、シェイクスピア映画について本を書く人間が、前衛的で嫌いだから扱わないというのは、素人以下の意見でしょ(ジャーマンの『テンペスト』は、同じ監督の他の作品にくらべると、わかり易い作品ですよ)。そんな奴が、本なんか書くなと言いたい。これがシェイクスピア映画について世紀末の現状だった。


●たしかに先生が、シェイクスピア映画なんてマイナージャンルについて書こうというのは、妙な感じがしてました。得意のジェンダー批評とかポストコロニアル批評とかイデオロギー分析でがんがん批判し解剖するのが目的なんですか。


○ああ、そのへんを期待されちゃうと、ちょっとつらい。文化イメージとしてのシェイクスピアが現代においてどのように消費されているかを見極めたという野心はある。でも私はシェイクスピア映画を埋葬するためではなく、褒めるために来た。

  同志よ、ローマ人よ、同国人よ、耳を貸したまえ。
  私はシーザーを埋葬するためにやってきた。彼を褒めるためではない。
               (『ジュリアス・シーザー』第三幕第二場)


クィアアダプテーションの観点を軸に、世紀末から現在までのシェイクスピア映画の成果を評価したいので、新しい映画史を試みるのではく、映画史を撹乱するのが目的。いまひとつの目的は、指摘されたようにここ十年間でシェイクスピアをめぐって高度な言説が英米で登場しているが、それを紹介するのではなく、そうした言説の一角を占めること、そうした言説たらんとする欲望を実現させること。はたして、それに成功しているか否かは読者が決めることだけれど。


 たとえばここにあるいのはケンブリッジ・コンパニオン・シリーズの一冊でシェイクスピアに関するもの*。研究用の入門書だけれど、シェイクスピア映画というと、こういう本のなかの一章を占めていると思うでしょう。ところがシェイクスピア映画だけで独立して一冊の本になっている。シェイクスピア・オン・フィルムのコンパニオンがこれ。この『シェイクスピア映画コンパニオン』のほうが『シェイクスピア・コンパニオン』よりすこしページ数が多いというのも面白い。しかも映画コンパニオンが出版されているのは、このシリーズではシェイクスピア映画だけ(まあいずれ『ジェイン・オースティン映画コンパニオン』くらいだったら出版されるかもしれない)。


 幸いこの映画コンパニオンには翻訳が存在していて、これがその翻訳。『シェイクスピア映画論』(開文社、二〇〇四年)。詳しい情報なり議論を知りたければ、ぜひこの本、翻訳もきちんとしているこの本をひもといてもらいたいのだけれど、しかし、問題がひとつ。


 この『シェイクスピア映画論』には、あとがきで監訳者が「日本の読者の便宜を考えて」いくつか作品を追加しているのだけれど、「是非鑑賞して欲しい」という作品が、ジョルジオ・ストレーレル演出『テンペスト』(イタリア語)の舞台を記録した、テレビ中継版のビデオなの。おまけに日本版は出ていないので日本では入手困難。ストレーレルは優れた演出家なので、その舞台は見る価値があるかもしれない(とはいえ問題になっている舞台は、古臭いコスチューム・プレイの演出で、そんなものいまの演劇ファンなら見向きもしないぞ)。でも、それは映画じゃないのですよ。多くの人間の知恵と技術と霊感の結晶であり、膨大な時間が投入されて完成した娯楽であり芸術でもある映画に、舞台中継という中途半端なものがどうして伍してゆけるのですか。映画ではなく、舞台の記録を、その本のなかで触れられているあまたの映画に匹敵するか、それ以上のものとして推薦しているのですよ、このバカたれは。結局そこにみえるのは、シェイクスピア映画をシェイクスピア劇理解のための補助としか考えていない、旧弊な演劇研究者とか文学教師の前提、つまり「シェイクスピア映画は、舞台にはかなわない」という実に差別的で愚かな前提なのです。そんなやつが『シェイクスピア映画論』の監訳者とは、くっそ、とことん、むかついてくる。


●え、きれてるんですか、そんなことで、きれる?! ちょっと待ってください。もう、きれそうなのは、私のほうですよ。いつになったら原稿が仕上がるのですか。


おわり