ホロヴィッツ先生
エドワード・W・サイードのピアノの先生は、イグナス・ティーゲルマン*1といって、ポーランド出身のピアニスト。ユダヤ人。ティーゲルマンは、同じくポーランド人のピアニスト、レシェティツキ*2について、ウィーンでピアノ演奏を学ぶ。ドイツで音楽と哲学を学んだあと、アメリカを旅行するが、健康上の理由(喘息)から1931年以降エジプトに落ち着くことになる。これはまたドイツにおけるナチの台頭とも無縁ではないだろう。この決定は、ドイツ時代に出会い、彼をライヴァル視していたホロヴィッツ*3を安堵させたといわれている。カイロでは音楽学校を開き成功を収める。ロマン派の音楽(ショパン、ブラームス、フィールド)の優れた解釈者だった。50年代にサイードを教えている。サイードの回顧録『遠い場所の記憶』でも好意的に語られている。そのピアノ演奏をおさめてCD版(中古品)が本日届いた。生前のラジオ放送とprivate recordingを集めたもので、音源は古いが、評価は高い。
残念ながら、私の音楽の教養はゼロであり、ティーゲルマンのことを知ったのもサイードを通してだが、知識以上に、音楽とはずいぶんうとくなってしまい、音楽を聴く耳があるかどうかも不安である。このCDも専門家に聴いてもらって意見をきくしかないかとも思う。
しかし昔からそうではなかった。私の家族は音楽一家であり、私の父は、サイードとも話が盛り上がったはずのたいへんなクラシック音楽ファンだった。実はCDのジャケットにあるティーゲルマンの写真を見ていると(はじめてみるのだが)、ライヴァルだったホロヴィッツとけっこうよく似ている。そこでホロヴィッツのことを思い出した。
私の通った小学校には、上条先生という年配の先生がいた(1年生と2年生のときに私のクラスの担任でもあった)が、その上条先生のことを私たち家族の間でホロヴィッツと呼んでいた。ホロヴィッツに顔が良く似ていたからである。たぶん父が持っていたレコードのジャケットとか、音楽とかレコード関係の雑誌でホロヴィッツの顔写真をみて、よく似ていることに気づいたのだ(みんな音楽家には興味があった)。上条先生のことを知っている母や妹も、ホロヴィッツとの類似性を認めていた。その後、テレビでホロヴィッツの映像を見たことがあるが、そのときも確信はゆらがなかった。いまでこそ、ホロヴィッツといっても誰のことか知らない若い人も多いかもしれないが、当時は大スターだった。そしてその後、全盛期をすぎてから日本に演奏に来てからの事件は……、まあ、これはべつの話になるだろう。
ただ当時、私たちは上条先生のことをホロヴィッツと呼んでいたか、ホロヴィッツのことを上条先生と呼んでいたか、そこのところの記憶は定かではない。たぶん互換性はあったのだろう。