美しい友情のはじまり 『カサブランカ』ゲイ映画解説4


スラヴォイ・ジジェクは、ある論文のなかで映画『カサブランカ』のなかにある謎めいた3・5秒のショットをとりあげて、二つの相反する解釈が可能であるとうい議論を紹介している*1


映画のなかの、その場面だけに焦点を絞ると、「カサブランカ」の経営者リック(ハンフリー・ボガート)が、かつての恋人で、自分を裏切り見捨てた女性イルサ(イングリッド・バーグマン)から、なぜ裏切ったのか、その告白を聞く場面がある。すでにべつの男の妻になったイルサではあったが、まだリックを愛しているといい、二人は抱き合う。暗転。つぎにボギーは、窓辺にたって夜の飛行場の管制塔を、たばこをふかしながら見ているが、部屋のなかでは彼女がベッドに腰掛けている。ボギーはおもむろにふりかえり「それで?」という。彼女は告白を再会する。


暗転から「それで」までが3・5秒。この間になにがあったのか。もっと端的に言えば、ボギーはやったのか、やなかったのか “Did he do it or not? ”(ジジェクの原文どおり。いやあ、おじさん、この下品な英語にのけぞってしまった)。「やっていない」とする観点からみると、まず彼女もボギーも着衣が乱れているわけでもないし、ベッドもそのままである。二人の間には告白という静かな時間が流れているだけで、そこに見かけ以外のことが、つまりやった形跡はない。


しかし彼女は、嘘かもしれないが、ボギーをまだ愛していると言ったわけだし、ボギーも彼女を愛しているとなれば、ふたりはその間に「やったのだ」。それを暗示するかのごとく、ボギーはタバコをすっている。また彼が見ている管制塔は勃起したペニスを思わせるファリック・シンボルである。


タバコがセックスを暗示するめざましい例として、エリア・カザン監督の『欲望という名の電車』の一場面をあげることができる。ブランチの妹は、夜、夫(マーロン・ブランド)と大喧嘩するのだが、翌朝、ベッドで満足そうにタバコをすっている。彼女は普段から喫煙する女性ではない。その場面でのみ彼女はタバコをすう。映画の中で一回だけ。それは夫婦喧嘩のあと関係修復のために性行為があったことを、はっきりと示している(ちなみに妻と険悪な仲になったとき夫は、妻とのセックスによって関係回復するというのは、若い人は知らないと思うが、一昔前の夫婦生活の暗黙の英知だった)。


この二様の解釈に対して、映画はどちらかいっぽうに保証をあたえることなく、二種類の観客に向けて場面を仕組んでいるというのが従来の解釈らしい。つまり無知な観客と祖フィスティケイトされた観客、どちらも楽しめるように形で映画はつくられている。イノセントな観客は、そこに性行為があった可能性など夢にも思わず見終わるだろうし、いっぽうソフィスティケイトな観客は、性行為を思い浮かべ、ひとりほくそ笑む。


ジジェクはこれに追い討ちをかける。つまりこの場面で性行為は大文字の他者に向けてなされていない。大文字の他者とは、通常の道徳意識から物語の神様も含む公的な領域の柱となるもの。しかしソフィスティケイトな観客の内的意識というプライヴェットな意識のなかでは性行為はおこなわれている。公的にはなんらやましいところもなく規範から逸脱していないかにみえて、そのなかでこっそりと違法な猥褻な行為が行われる。これをジジェクは内的侵犯internal transgressionという。


しかし、なんたるへテロセクシズム。男女がふたりっきりになったら。それも元彼女といっしょだったら、絶対にセックスをしているはずだという妄想は、ソフィスティケイトされた観客の秘められた楽しみどころか、ヘテロな性欲にふりまわされる10代前半の少年の性幻想のようだ。


いやこんなことを書くと、結局、自分で気づかなかった秘めれた性行為を指摘されたことの腹いせ的な、いや真実を拒否するフロイト的な抵抗と嘲笑されるかもしれないが、この場面で、ふたりは「やっていない」。いや、やっているように見えるとしても、それはあとから、やっているはずはないとわかり、私たちに一瞬生じたヘテロな幼い性幻想は修正されるのである。


物語の流れからして、タバコを吸うボギーが窓から飛行場の管制塔を見ているのは、性行為を暗示するためのファリック・シンボルを成立させるためというよりも、彼女とその夫を飛行場から逃がしてやる計画を頭のなかで描いているからであり、ひいてはそれは彼女をその夫に永久に譲渡することを決意したということなのだ。自分を捨てた女と永遠に結ばれるどころか、その女を永遠に失う覚悟をしたということなのだ。いったいこの覚悟のまえに、そのホモソーシャル連続体への貢献のまえに、誰がヘテロなセックスをするというのか。


いうまでもなくこの『カサブランカ』はたんなる悲恋物語ではない。悲恋物語で連想されるようなヘテロな男女の恋愛を超えた何があることを暗示する映画である、その何かとは、男どうしの友情である。この美しい友情が、男女の恋愛に先行するのであるし、先行させねばならないのである。


なぜか。いうまでもなく、この映画が作られたのはヨーロッパでの戦争の帰趨がまだ定かでない時期であり、これは戦争協力を呼びかける戦意高揚映画だからだ。最初からそのつもりで作られたプロパガンダ映画ではないとしても、重心は男女の恋愛ではなく、男どうしの友情である。正確にいえば、男女の恋愛を契機として、あくまでも契機として機運が高まる男性同盟の誕生の瞬間を見極める映画なのであり、そのためにも主人公は女に裏切られ、女を憎んでいることが必要とされた。また女が必ずしも自分を裏切ったわけではないことがわかっても、主人公は、女とよりをもどすどころか、女と夫を守る側にまわる。女の夫がナチスに抵抗するレジスタンスの英雄であるということは、むしろダメ押しに近い、なくてもよい設定である。この戦時下において憎むべきナチスに対して男たちよ、立ち上がるべきではないのか。それがこの映画のメッセージである。


もちろん、いまの私たちにとって、この映画は戦うべきナチスが存在しなくなったぶん、政治的プロパガンダ性が終了したぶん、純粋に男どうしの友情をたたえる映画としてみることができて、その無償性と美しさが増大した。男性同盟がナチスに対抗して形成されているかぎり、その友情は政治的に利用されたもので、美しいものではなかった。ナチスの脅威がなくなったぶん、この映画の末尾、美しい友情のはじまりは、ほんとうに心にしみる。


むしろソフィスティケイトされた観客だけが抱くのを許させる性幻想とは、ボビーがこれまで、あるいはこれから、男を抱いて寝た/寝る姿である。もし幼稚なヘテロセクシズムにまどわされなければ、これこそが、この映画の内的侵犯なのである。


そういえばボビーの経営するナイトクラブ(めいたところ)には、スリが出没した。このスリがどうやって客から財布を盗むのか思い出してもらいたい。そう、このスリは、特定の客に、こっそりと、このナイトクラブにはスリがいますよと、秘密の情報を教えて、相手を油断させて目的を遂げるのである。ちょうどこの映画には隠れたセックスシーンがあることを、映画からひそかに教えられ、みずからソフィスティケイトされた観客とほくそ笑む馬鹿が、結局、映画に騙されて、あとで恥をかく。秘密のセックスシーンと思えるものは、もうひとつの秘密を忍び込ませるための口実にすぎなかった。ラカン精神分析家であるジジェクが気づかなかったのはおかしいとしかいいようがない。

 

*1:Slavoy Žižek, The Art of the Ridiculous Sublime: On David Lynch’s Lost Highway (Seattle: Walter Chapin Simpson Center for the Humanites, University of Washington, 2000).とりわけpp.4-5参照。