「回教徒」と訳すな!

ジョルジョ・アガンベンアウシュヴィッツの残りもの――アルシーヴと証人』上村忠男・廣井正和訳(月曜社2001)は、ホロコーストにおいて収容所でユダヤ人たちが「ムスリム」と呼ばれていたという興味深い事実を報告し論じている。それは、この本のきわめて衝撃的な部分である。だがこの翻訳を読んで、もっと衝撃的なのは、「ムスリム」のことを回教徒と訳しているのだ。回教徒!?


現在、メディアでは、「イスラム教徒」と訳しているし、そのように訳さずに「ムスリム」とする場合もある(原音を重視すれ「イスラーム教徒」。ただいずれにしても「回教徒」と訳すのは、キリスト教徒を「耶蘇教徒」と訳すようなもので、現在では使われない。まあ、私のようなオジサンが中学生か高校生の頃には、まだ教科書に「回教徒」と表記してあったかもしれないが、現代の言語習慣としては「回教徒」は使われない。きちんと調べてみれば、なぜ「回教徒」という表記を使わないかは、ちゃんとした理由もある。たとえば『岩波イスラーム辞典』の「イスラーム」の項を参照のこと*1


上村忠男は、外語大関係者の間では「天皇」的存在らしく、下手な批判をすると、日本の右翼よりも怖い(とはつまり相当怖い)刺客が飛んでくるらしいので、誰も文句は言わないのかもしれないが、「回教徒」という訳語はないぞ。どあほ。


上村忠男は、サイードを評価しているらしいが、それはサイードの西洋人・アメリカ人としての側面だけに注目し、サイードのアラブ人性(サイードムスリムではないが)やアラブ・イスラム文化に対してはひとかけらの関心もない。いや関心がなくてもいいが、アラブ世界とその文化・宗教に敬意くらい払えよ。


私は怒りすぎか。そうでない。この翻訳についてアマゾンでは以下のようなコメントが載った。

絶望の極限。 2006/1/23
レビュアー:misidazai (多摩区)
彼はアウシュビッツヒロシマナガサキにも比較にならない惨事であるという。日本人として、引っかからないわけでもないが、悲惨さの量、衝撃より、質的なものを、問題提起しようとしているのか?
むしろアウシュビッツはシベリア抑留に質的に似通っているのではないか?と感じられた。仲間と思ったものが、どんどん精神的に、また肉体的に弱り、徐々に囚人の数が減らされていく。正しくアガンベンが言った「ホモ・サケル=剥き出しの生」であり、フーコーのいった「生政治=バイオポリテック」である。政治が生殺与奪権を恣意的に振り回すということである。
 またこの書で驚かされるのが、死に瀕しているもの、死に憑かれた者を「回教徒」と呼び、囚人仲間でも差別扱いし、その死を、また祈るような仕草を、侮蔑的に見ていたというのが、衝撃として感じられた。
「回教徒」差別=アラブ差別は、イスラエル建国=シオニズムの実行以前から、アウシュビッツという極限状態から、端を発していたのか?
悲劇の連鎖というほか無い。人間の性の悲しさ。アウシュビッツから生き延びたものの、恥じらいというものが始めて理解される。

あともうとつ−−

人間の極限状況とは, 2005/10/29
レビュアー:クライストの悲劇

強制収容所からの奇跡的生還者の証言をひもときながら
人の極限状態の状況を考察し、
その思索は人間とはいったい何者かというところまで広がっていく。
いや、人間でなくなるとはどういうことかといったことまで。
アガンベンの試みは性急さがなく、落ち着いており、
押付けがましくない。
「証言することの絶対不可能性としての回教徒、非ー人間」
回教徒の存在。
それは倫理や言語とは何かという問題に密接に関わっている。
証言ひとつひとつをもとに思考が繰り広げられていくため
若干まとまりにかける印象もあるが、
むしろそういった試みこそが真実にもっとも近づける
形のように思われる。
ハイデガーレヴィナス、その他数々の先人の
思索をひきながらすすめていくアガンベンの思索は
決っしてそれらのものにひけをとらない深さがある。
アウシュビッツという事件を
とくに祭り上げることもなく
その真実は何かとたどっていくアガンベンの誠実さが
伝わってくる、そんな書物である。

私はこのアマゾンに掲載された二人のコメントにべつに異論はない。ただ問題は上村の訳語のせいで、二人とも今では使われなくなった「回教徒」という言葉をなんの抵抗もなく使っていることだ。「「回教徒」差別=アラブ差別は、」と一人は、コメントしている。あんた自身が「回教徒」という語を使うことによって、意図しなくても、アラブ差別に加担していることになるのだよ。せっかく撲滅されて使われなくなった「回教徒」という言葉が、アラブ差別主義者としかみえない(アラブ世界になんら敬意を表していない)上村のせいで、また息を吹き返して、増殖しているではないか(事実、私はある雑誌のこの翻訳の書評でも「回教徒」という言葉が、まったく無神経に使われていたことを思い出した)。まあ、上村の本や翻訳を読むような連中は、ヨーロッパ中心主義者の名誉白人を気取っている馬鹿どもばかりだろうかららしかたがないか。


それにしても上村忠男、恥を知れ。

*1:「回教」「回教徒」というのは中国での呼称で、日本でも長く使われてきたが、これは中国における歴史的な誤解から生じた名称なので、現代では使わないのだ。中国では1956年から「回教」という語の使用を禁じ「伊斯蘭教」と表記するようになった。