よいムスリム

アメリカ西部開拓時代には、先住民(いわゆる「インディアン」とかつて呼び慣わされていた人びと)のことを差別的に、「死んだインディアンだけがよいインディアン」と呼んでいたということは、有名な話である。


ダワーの『容赦なき戦争』によれば、第二次世界大戦中、アメリカでは、敵国の日本人について、「死んだ日本人だけがよい日本人」という標語がはやったという。


このことはヴァン・ホーヴェンの映画『スターシップ・トゥルーパーズ』も文化的記憶にとどめていた。この映画では、異星生物と交戦中の地球は、ファシスト政権の戦時体制をとり、戦意高揚映画をつくる。そのうちのひとつが、この映画の物語という、かなり皮肉な設定になっている。しかも映画のなかには戦意高揚的なスポット映像も随所に織り込まれている。そのなかのひとつに、昆虫型の異星生物の本物かレプリカ、あるいは異星生物にみたてた地球上の昆虫を、子供たちが踏み潰して、「死んだ宇宙怪物だけがよい宇宙怪物」というメッセージを流すものがあった。


しかし、「インディアン」や「日本人」や「宇宙人」は、憎たらしい相手だが死んだら良いものとして扱われたのだが、湾岸戦争を扱ったアメリカ映画『ジャーヘッド』における死んでゆくアラブ人たちは昆虫以下の扱いしかうけていない。イギリス出身のユダヤ人演出家・監督のサム・メンディスのこの映画は、死んでゆくアラブ人に対して、ひとかけらの同情もない点で、吐き気がするくらいの出色の映画である。


「死んだアラブ人だけが、よいアラブ人」どころか、「死んだアラブ人は、やっぱり気持ち悪い」というのがこの映画におけるアラブ人への扱いなのだ。ユダヤ人監督ならではの映像処理である(主役のジェイク・ジレンホールが砂漠で黒焦げになったアラブ人避難民の死骸に遭遇する場面を思い出して欲しい)。


戦争において非戦闘員は必ず犠牲になる。戦争は軍人だけのゲームだと思うのは大間違いで、どのような戦争も、おびただしい民間人を巻き込むことを軍事行動の一環としていることは言うまでもない。したがって避難民たちが攻撃を受けて黒焦げになっている姿は、アメリカ軍の残虐行為、ひいては戦争そのものの残虐性を告発する重要な契機となるのに、この映画では、それはただ気持ちの悪いアラブ人の死骸、同情に値しないアラブ人の死骸なのだ(事実、彼らアラブ人たちは、避難中にアメリカ兵たちと遭遇しているが、そのときの印象では富裕層であり、アメリ海兵隊員らの階級的怨嗟の対象となるにふさわしかった)。


だがユダヤ人のサム・メンディスに言いたい。アラブ人に対する同情心の欠如こそ、アウシュヴィッツにおいてユダヤ人にひとかけられの同情も寄せなかったナチスの心性ではなかったか。あの焼け焦げのアラブ人の死体こそ、アウシュヴィッツと直結してはないかったか。


この心性はまた、ムスリムあるいはイスラム教徒のことを、「回教徒」と訳して平然としている上村忠男のそれと同じである。ユダヤ人もムスリムも、ともにヨーロッパにとっての他者であった以上、どう呼ばれようが、ナチにとってはどうでもよかったのである。それは上村も同じである。ヨーロッパ人にしか関心のない上村は、アラブ人がどう呼ばれようが、どうでもよかったのである。ユダヤ人(それも弱って死にかっかったユダヤ人)を「ムスリム」と読んだナチと、ムスリム、あるいはイスラム教徒を、現代の日本語における言語習慣をも無視して「回教徒」と訳した上村とは同じなのである。

上村にアウシュヴィッツ物を翻訳する資格はない。