怖い夢


学生たちが、よく見る怖い夢について話しているのを聞いたことがある。乗っている飛行機が墜落する夢など誰にとっても怖そうな夢があるいっぽうで、当人にしか怖さのわからない夢も多い。夢は、本人の生活や人生と深く関わるものだから、それは当然のことだろう。


私がよく見る怖い夢は、誰にとっても怖いかもしれないが、同時に、その内容に誰もが違和感を覚えるものかもしれない。それは高校生の私が卒業できないことで悩む夢である。最近は見なくなったと思っていたら、昨日、うたた寝をしたわずかの瞬間に見ていた。


高校生の私は、音楽の授業に一度も出席していないことに気づく。その時間はいつもさぼっていて、出席しなければと思いつつも、ずるずると今日まできている。そろそろ出席したほうがと思っても、授業内容もわからず、今頃のこのこ出席しても、言い訳すらできない。病気というわけにもいかない。その前後の時間の授業には出席しているのだから。なにか特別な理由があったようにも思えるのだが、なんであったか定かではない。あせりながらも、どうすることもできない自分がいる。


一度も出席もせず、無断欠席をつづけていたら、この授業の単位はもらえるわけがない。留年するのは、高校生にはつらい。たったひとつの授業のために卒業できないのは馬鹿らしいが、たったひとつでも単位がなければ卒業できない冷厳な事実がある。先生は見逃してくれないか。大学の入学が決まったら大目にみてくれないか、などと甘い期待をいだくが、それがありえない空想であることも嫌というほどわかっている。自分のせいだとはいえ、卒業できないのはつらい。おそらくこのとき、私は寝ながら、悪夢にうなされた苦悶の声をあげているはずである。


私は高校で音楽の授業の単位を落としそうになったことはない。しかし他の科目では落第点をもらったこともある。だから「音楽の授業」は別のなにかの代用なのだが、悪夢の根幹にあるのは、特定の科目の好き嫌い、得手不得手の問題ではなく、長期無断欠席をしていることの焦燥感のようなものである。大学などで長期欠席している学生の気持ちは、こんな気持ちなのだろうと、いつも思う。


この悪夢から自力で逃れたこともある。授業の単位がもらえないことが確実であるという絶望感のなかに、そろそろ今週の授業の準備をしておかねばならないという意識がまぎれこんでいる。私はその意識を取り出してみる。「授業の準備?」それは何だ。私は大学で教えているらしい。いくら大学で教えていても、高校を卒業できなければ関係ない。いや、待てよ――私は夢のなかで注意を集中しはじめる。大学で教えるというのは、大学を卒業したということだ(これは非論理的である。大学を卒業しなくても大学で教えることはできるが、まあ、よいとしよう、夢の中の思考である)。大学を卒業したということは、私は大学に入学したということだ。そうだ、そうなると私は高校を卒業したのだ。そうだ、そうだ、私は高校を卒業して大学に入学して、大学を卒業したのだ。そうじゃないか。


私はこうして悪夢の泥沼から自力で這い上がって、息をすることができた。これはほんとうのことである。


ちなみに、どうして無断欠席して苦しむのか、それが何を意味する夢なのかは、自分なりに察しはついている。しかし精神分析によれば夢は無意識の産物だから、夢の意味について意識的に了解しても、その背後に、意識ではとらえられない無意識の意味が潜んでいる。自分でする夢解釈は、無意識が差し出した囮というか罠に騙されることだ。


と同時に、私は(誰でもそうだが)、言語化できなくても、夢の内容について、無意識が発するシグナルについてちゃんと知っているというのも夢のパラドックスである。ちなみに昨日は、「こうして寝ている場合ではない」と、自力で起き上がったのだが、夢のなかでも、自分が大学を卒業したことをうすうす感じていた。しかし、それが夢から覚めるきっかけにはならなかったのは、この夢がもつ内容と連動しているのかもしれない。いまは、それだけをうっすらと感じている。