殺してもゆるされる


最近の飲酒運転による人身事故は、福岡での子供三人の死亡以来、反省によって少なくなるかと思ったら増える一方である。


しかし、こうした事故のたびに思うのは交通事故による処分の甘さであろう。交通事故の場合、事故だから故意ではないということで、人を殺しても死刑にならない。人を殺してもよい例、その一。しかし飲酒運転は不特定多数の人間を殺す可能性があるから、殺人罪でもよいのに事故扱い。死刑を廃止しない日本が、飲酒運転による殺人行為に死刑を適用しないのは珍しいことである。


交通事故の厳罰化は、車社会を停滞させる。事故は事故だ。一度くらい事故を起こして人を殺したからといって、その者を死刑にしたり、長期の刑罰を科したら、誰も車に乗らなくなる、誰も車を買わなくなる。だから現代の社会は車の事故に関しては刑罰が甘い。それは車のために人を殺してもよいという世界なのだ。


かつてトマス・モアは、羊の放牧場をつくるために、農地が失われ、農民が困窮するさまをみて、イギリスでは羊が人間を食べると語ったのだが、世界では、車が人間を食べている。


人を殺してもいいということ、さも挑戦的な問いかけであるかのように語る頭のからっぽな若者から哲学者にいたるまで、寝ぼけてんじゃねいぞ。この日本では、凶器が車なら、人を殺してもいいことになっている。偽りの挑発的姿勢はうんざりだ。それは日本の社会の心から肯定していることじゃないか。


もちろん車社会だけではない。人体実験ということなら、日本では人を殺しても許される。おそらく世界でも。アウシュヴィッツは消えたのではない。普遍化して見えなくなっただけだ。この件については、いずれ。