A Road Taken

*A Road Taken By All

1. 今年の上半期のある授業でシェイクスピアの『リチャード三世』を読んだ。そのとき、ロンドン塔に捉えられているリチャードの兄クラレンスのもとへ、リチャード自身が暗殺者ふたりを送り込む場面が話題になった。なぜなら、いざ殺す段になって、暗殺者たちはクラレンスの言葉に感銘を受け、暗殺するという決意が鈍り、むしろ暗殺行為を思いとどまるのである。まあ結局、クラレンスは殺されるのだが、殺し屋が逡巡するのは、なにか興味深いものがあり、学生の間でも話題となった。現代人にとって違和感があるのである。


  そのとき私は、ある映画を思い出した。The Deep End(2001)という映画。この映画を作った監督二人*1の最新作は『綴り字のシーズン』(A Bee Season 2005)。こちらは日本のみならず世界的に好評だったようだ。The Deep Endは、日本で公開されたかどうかわからないが、そのなかで息子を誘拐さた母親(Tilda Swinton)と犯人(正確に言えば犯人の仲間でメッセンジャー的役割の男)との興味深いやりとりのの場面があった。その犯人の冷酷な要求に対して、ティルダ・スウィントン扮する母親は必死に説得をする。一人息子が誘拐されて絶望している。要求されたお金なんかつくれっこない。どうしたらいいのだと犯人に詰め寄ると、犯人の心がゆらぎはじめる。



2  現在『日本以外全部沈没』という筒井康隆原作(短編)の映画を上映している。私はその原作を読んだことがなかったので、ネット上で『筒井康隆100円文庫全セット』に収録されているのがわかり、購入しダウンロードした。作品自体は、面白く、なつかしい感じの出来だったら、せっかくだからそこに収録されているほかの短編も読んでみた。なかでも「ウィークエンド・シャッフル」というのは、タイトルの名前には記憶があったが、実際に読んだかどうだかわすれてしまったので、読んでみることにする。面白い短編だが、前に読んだという記憶はなかった。最初に誘拐の話が出てくる。子供を誘拐された母親の話。物語はさらに予期せぬほうに展開するのだが、それは触れないことにして、子供を誘拐された母親の話から、映画The Deep Endを思い出した。


 母親に説得されて犯人が心変わりするというのは、見ていて違和感があったが、逆に新鮮な感じもした。そうなのだ。これは重要なポイントだが、いつ頃からかわからないが、犯罪映画で犯人は凶悪化の一途を辿ることになった。映画なので犯人は、血も涙もない冷酷な悪魔であることが圧倒的に多い。説得にも応じないし、改心もしないし、後悔することもない。何を考えているかわからない悪魔。


 そんなときThe Deep Endの犯人の反応には興味深いものがあった。実はこの映画、アメリカ映画でフランス出身のメロドラマの巨匠マックス・オフュルスMax OphulsのThe Reckless Time(1949)のリメイクなのである。そうだからこの作品の展開には新鮮な違和感があった。40年代50年代のメロドラマ・サスペンス映画の展開なのである。オフュルスの映画のほうは観ていないが、筋立ては同じということだ。


 そこで私は唖然とする。40年代50年代の映画では犯人は、いまほど凶悪化しておらず、反省したり同情するという心変わりもみせる人間的感情を備えた人物だったのだ。以後、映画における犯人は、凶悪化の一途を辿る。そして彼らはもはや絶対に改悛もしないし心の揺れもない、純粋な悪魔的人物になりおおせたのだ。もちろん映画のなかの話である。現実においては、犯罪者となることで動揺し反省し後悔する人間も多いだろう。いや、だが凶悪な悪魔そのものと化した犯罪者しか登場しない現在の映画、犯罪者が凶悪化と一途を辿る犯罪者、そうした人間しかでてこない現在の映画は、犯罪者から反省したり許しを乞うたりすべてを投げ出してやり直すチャンスを、限りなく奪うのではないだろうか。凶悪でなければ犯人でないかのような錯覚。<犯人はコミュニケーションできない悪魔であって、最終的には射殺するしかない>ような錯覚が、いまはぐくまれているのではないだろうか。シェイクスピアの時代から1950年まで、誰も予想もしなかった展開なのである。

*1:Scott McGehee & David Siegel