酩酊船

 酒酔い運転、酒気帯び運転、どちらにしても酒を飲んで車を運転する事故が増えていて、いっこうになくなる気配がない。私は車を運転しないが、私の周囲では、酒を飲んだら絶対に車を運転しないことを守る人たちが多く(当然か)、また周囲でも酒酔い運転を絶対に許さない風潮があったので、このような事態に、ほんとうに驚いている。日本では酔っ払い運転に対する姿勢が甘いなどといま言われているが、嘘だろう、昔はアメリカは酒を飲んで運転してもよいが、日本は絶対にだめだといわれていた*1
 車社会になって酔っ払い運転に甘くなったということはあるが、同時に、検挙されたり事故を起こして逮捕されたりする運転者の多くが、自分は酔っていても安全に運転できるという自信があるらしい。酩酊状態であっても自分は運転できると思い込んでいる。
 愚かで悲しいことなのだが、これが人間の現実である。たとえば老齢になっても、若い者に負けないと思い込んでいる。あるいは私自身そうなのだが、50歳を過ぎても、30歳の頃と意識というか気持ちは全然かわらない。歳をとっているのに実感がない。よぼよぼの老人になっても、若い頃と同じように動けたり思考できると、心底感じている。
 結局、人間は死ぬまで酩酊状態から抜け出せない。気持ちだけは大きくなり、夢は膨らみ、宇宙の支配もできると思うくせに、足腰がたたず、一歩先もまっすぐに歩けない。シェイクスピアの『マクベス』のなかの門番の台詞――酔っ払って興奮状態になり朝まで何回もセックスできそうな気がして、実際にはペニスがたたず一回もできない(ちょっと意訳しすぎか)――ではないが、精神的高揚と肉体的能力とが背反しあう。興奮しても、あるいは興奮しているがゆえにか、なにもできないのである。
 文明も同じであろう。気宇壮大な夢を描いていて人間の十全たる可能性に心躍らせながら、やみくもに文明を築き上げても、実際には、空虚な進歩幻想が、すこしも進化しない人間の能力と共存している。
 ナショナリズムも同じである。いまネット上も含め、日本(あるいは世界)に跋扈しているナショナリズムも、結局、自民族中心主義という酩酊状態にある愚か者たちによって支えられているしかない。冷静で足元の現実を見失わない者たちの前に酩酊状態のナショナリズムは必ず敗退する。
 H・G・ウェルズの『宇宙戦争』は、蛸型の宇宙人(正確には火星人)を登場させて、私たちの記憶に刻み込まれたが、あれは頭でっかちな人間やナショナリストたちのなれのはての姿なのである。

*1:ちなみにイギリスで見たあるアメリカのドラマは、パーティの席で、参加者がこっそりフルーツポンチに酒をなみなみとそそぎ、飲んだ者たちが気がつかないうちに、酩酊状態になり、さすがにパーティの主催者で地元の保安官の女性が、いたずらにもほどがある、こんなに酔っ払って車を運転して帰ったら事故が起こるのではないか、私の夫は実は、そうした事故で死んだのだと涙ながらに訴える場面があった。酒酔い運転撲滅のドラマであったが、ただ酒酔い運転は自己責任で罰則めいたものがないことに、私はみていて唖然とした。そのとき日本ではこんなことはありえない。アメリカはひどい国だと思ったことは、よく憶えている