病院へ行こう

 病院に行ってきた。自分の病気のせいではなく、身内の病気の説明を聞きに。問題は病院の中ではなく、病院に行く前に起こった。道に迷ったのである。
はじめて行く病院だったので、ウェブ上のサイトから略地図をダウンロードした。地下鉄の駅からすぐ近くで、分かりやすそうな場所だった。地下鉄の先頭車両に乗って、降りたらホームの階段をあがる。改札を出たら、進行方向に対して右に90度曲がってまっすぐ行けば正面玄関が右手に見えてくると理解した。
 だが改札を出て階段を上り大通りの歩道に出たときは、方向がわからずに途方にくれた。近くには四辻があった。信号機の周りにはいろいろな場所を示す標識があったが、どれも公的機関の場所を示すもので、その私立の病院の存在を示す標識はどこにもない。これはどちらを責めるべきかどうかわからないが、けっこう大きな病院である以上、準公的機関に等しいから、その方向を示す標識を自治体で作ってしかるべきだし、病院側も患者や訪問者のために標識ぐらい自前で出しておくべきだ。その場所から病院がまったく見えない(予想外だったが)ために、場所の表示は絶対に必要なのだ。
道が分からないとき、私は人に聞くことはない。相手がその場所に不慣れな場合がけっこう多いし、またその場所に詳しくても、場所が複雑で、方向指示が聞いていてよくわからないこともあるし、悪気がなくてもまた道筋は単純でも教えたかが悪かったためさらに道に迷ったり、場所をたずねたら、実はすぐ目の前になって恥ずかしい思いをしたりと、ろくなことがない。頼りになるのは略地図である。
 ダウンロードした略地図も、あとから場所がわかってからみると、正確かつ適切であることがわかったのだが、略地図の常で、初めてその場所に行こうとするときは、道に迷わせる道具ともなりうる。初めての場所を目指すとき、略地図のどこがポイントかを誤読することがあるからだ。たとえば略地図から、コンビニの角を右に回ればよいと情報のポイントを読み取ったとしよう。しかしポイントは、コンビにではなく、二つめの信号を右に回るということであり、その角にあるコンビニは、目印のダメ押しにすぎないことがある。実は略地図には書いていないがコンビニはたくさんあり、最初の信号のある四辻の角にもコンビニがある。二番目の信号というポイントではなく、角にあるコンビニを重要なポイントとして考えていた私は、最初の信号のある四辻の角をコンビニを右に回り、さらに道に迷ってゆく……。
 今回の略地図のポイントは、地下鉄の進行方向に対して右に曲がるではなくて、ふたつの銀行にはさまれた通りを直進するということであった。ここで、略地図というのは、どんなに正確でも、ポイントを誤読させれば、相手を道に迷わせることができる、しかもその責任は問われない――正しい地図を描いているのだから。といういうことからサスペンス小説などにおける読者操作についての文学論を考えたらが、それよりも、地図の読める男、読めない女という、差別的な議論について一言コメントしたみたくなった。
 地図の読める男、読めない女というのは、男性を狩人的存在として女性を非行動的受身の存在にさせておこうとするイデオロギー操作であることは、すでに指摘されていることである。科学的議論では、男性のほうが女性よりも空間認識に優れているというのが結論となっている。そこから地図が読める→狩人なのだという、いい加減な男性観が生まれてくる。空間認識に劣る女性は行動的ではないことになる。
 で、今回、私は、地図を見て男性的に空間的に認識し、目的地と地下鉄駅との位置関係を頭に叩き込み、目印となる建物などを無視していた。あとでふりかえれば略地図には位置関係は正しく描かれていた(いくら略地図でも位置関係を乱すことは許されない)。しかし位置関係は二の次で、むしろ目印となる建物を言語的に記憶しておくことのほうが役に立った。「ホームの先頭から階段を上り、改札口をでて、道路に出たら右手に二つの銀行がみえるからその道を右に回ってまっすぐ行けば、右手に正面玄関がある」――というこれだけの言語情報で問題なかったのだ。まさに人に道を尋ねて得られる答えそのものである。ところが人から道を尋ねたときの心もとなさと同じ不安が、言語による情報にはついてまわる。空間的位置関係を把握しておかないと、居心地が悪いのだ。また言語情報だけの指示は、なんとなく情報としても不完全な気がする。付け焼刃の、素人っぽいものにみえてしまう。そこで空間認識があってはじめて略地図としても信頼と強度が増し、また移動なり行動しやすくなる。結果的に女性にみられる空間認識の欠如めいたところは、致命的な欠陥であると思われやすい。
 しかし、今回の件でもわかるように、空間認識のほうが行動するときには、邪魔になることがある。失効してしまうのである。今回、地下鉄の改札口から地上への出口までが、入り組んでいて、地下鉄の進行方向がどちらなのか、わからなくなった。曇り空で、太陽がみえなくて、だいたいの方角もわからなくなった。となると空間認識による略地図は失効するしかない。むしろ言語情報のほうが、動きやすい。大平原を駆け巡る狩猟社会では、方角や位置関係がわかる空間認識が有効だろうが、人間が都市生活をおくったりするとき、空間把握ができなくって道に迷うことになる。都市は、そこで動き回るときには、言語情報による標識なり道筋の説明が必要だから、都市は言語都市といえるのだ。
 空間と言語、どちらがすぐれているのかを問うのは意味がない。しかし歴史的にみれば、言語情報で空間をマッピングしたときに人間は行動半径を増やしたのではないだろうか。空間認識を男性的狩人的としてか見ない科学者は、そもそも情報認識において問題があるといわねばならない。
ちなみにその病人へは、時間ぎりぎりで到着して、誰にも迷惑をかけなかった。