新内閣誕生


 安部晋三自民党総裁が首相に指名されて組閣が行われた。新内閣の誕生のたびに、私は亡き母のことを思い出す。
 まだ文科省が文部省であった頃の話。文部省に提出する書類を作成しなければならなくなった私は、当時の文部大臣の名前を忘れた。
 ほんとうに一刻を争うことだったかどうか忘れたが、とにかく書類をその夜にワープロで作成するとい切羽詰った状況だった。文部大臣の名前が出てこない、というより、最初から誰だか知らなかった。
 いまならネットで文部大臣の名前を調べればわかるのだが、当時は、ネットに接続していなかったし、夜になっているので、たとえば文部省に電話して問い合わせることもできない。誰かに電話して尋ねようとしたが、心当たりがない。
 文部大臣の名前がわからなくて、書類が出来なくて困っているというと、私が驚いたことに、母はすぐに、いまの文部大臣は、誰々だと答えてくれた。そして間違うといけないからと、母は新聞の切り抜きで確認してくた。母は新聞記事をスクラップすることはしないが、内閣メンバーなどの重要事項の一覧は切り抜いて保存していたのだ。
 母はべつに専門家でもないが、政治の世界について常に関心を寄せていた。国会議員の名前については、ほとんどそらんじていた。子供が野球選手の名前を全部知っているようなものといえばそれまでだが、しかし政治的主張や公約などをよく憶えていて、その問題点も自分で判断していた。
 選挙のときには、母は私の父から自民党に投票するように言われても、はいはいといいながら、自分でよいと判断した候補に投票したと言っていた。
 創価学会の会員である隣人から公明党候補者への投票をすすめられたときには、自分の投票用紙に書いた名前をちらっと見せるよう前もって言い含められたのだが、忘れたふりをして投票した。母は一度も公明党には投票しなかった。
 母の死後、また首相が変わり、新内閣が発足したとき、私は、母の思い出に、新聞の切抜きを霊前に供えた。
 だが、その新内閣は、「天は人の上に人をつくり、人の下にも人をつくる」と語っただけでなく、脱亜(入欧)論を唱えた人物がつくった大学を卒業した人物が率いる内閣であり、それはまた戦後最大の悪夢の始まりでもあった。私はほどなくしてその切抜きを捨てた。
 私は母が最もよい時期に死んだのではないかと今も思っている。