同窓会

この世にいる人間は、二種類の人間に分けられる。学校によい思い出を持つ人間と、悪い思いでしか持たない人間、と。


私は高校時代によい思い出はない。高校時代の友達もいない。前にいた大学で、同級生が別の学部と教員となった。最初、挨拶されても誰だかわからなかった。むこうはわかったみたいだが、私にはわからないのだ。でもかすかな記憶から相手のことがわかってきた。変わり者だったが、クラスの人気者でもあった。学者になるとも、ならないとも、なんともいえなかったが、大学教員になってみれば、いかにもそれらしい風貌を備えるようになっていた。私とは、大きな違いである。


それから高校時代の思い出話となって、誰がどうした、こうしたということになったのだが、私は言われる人名がまったくわからなかった。顔はイメージとしてかすかに残っているのだが、名前はもうまったく覚えていない。いまも。


とはいえ私の通った高校は、悪い学校ではなく、また私自身、いじめにあったとかそういうことはない。私に友達がいなかったのも、すべて私の個人的な理由であって、学校のせいではない。ただそうした高校生活のおかげで、外国に長期滞在して、外国人として無視されても全然気にならなくなった。日本では、ちやほやされなくても、それなりに周囲から着目され、常に誰かに声をかけられているような生活を送っていると、外国人の群れに投げ出されると、日本にいるときのように関心の的ではなく、どちらかというと警戒の的になるようなとき、おかしくなる人間はけっこう多いのだが、私は高校時代の体験があるため、むしろ警戒されつつも放置される生活と日常、外国人に対する無関心というやさしさに心開かれる思いがする(こんなようなフレーズが、カミュの小説にあったような)。


とはいえ、ときには同窓会に出てみたいという気になることはある。これまで同窓会の類は一度も出たことはない。名前も覚えていないようなクラスメートに会ってもしかたがないのだが、また同窓会に出てくるのは、それなりに社会的に成功したり、安定したりする人間たちの顔見世かもしれないのだが、たとえそうでも、自分と同年代の人間がどういう生活を送っているのか興味はある。どうせまたのけものにされるにしても。高年齢の独身者というのは基本的に社会人の間では賤民扱いである。


しかし数年前に私のクラスメートだった人間が、同じ学年の人間を全部集めて同窓会をするとかいいはじめた。私のクラスメートだったらしいのだが、電話で直接話しても、まったく顔を思い出せなかった。これまで同窓会の類は一度も出たことのない私にまでアプローチしてくるくらいだから、とにかく大人数の同窓会にしたいらしいことはわかった。


またすでに定期的な同窓会を開いていて、少人数のそれの報告を、コンピュータで作った文面をプリントアウトしたような(カラーコピーかもしれないが、現物はすべて捨てたので確かめようもないが)回報を送ってきた。たまたま遊びにきていた妹が、送られてきている回報の束を見て、こういう人たちは、中年になっても、精神年齢は高校生なんでしょうねとか、よほど高校時代が楽しかったのでしょうと、かなり呆れ顔だった。


ただその回報をみても、わかったのが、同じ学年の同窓生を一同に集める大合同同窓会が、イヴェントとして企画されていたことである。私は度重なる誘いでも、遠いところに住んでいるし、忙しいからと断った。結局、200人ほどの同窓生と、もと教員だった人間が集まったらしい。まあ、いかなくてよかった。


いや、一瞬出席してみたいと思ったことは事実である。しかし、どうせそんなにたくさん人を集めるなら、私よりももっと年長の卒業生や、逆に、もっと若い卒業生たち、在校生だっていい、そうした幅広い年齢層の卒業生を集めたほうがよかったのではないか。私は年長者の卒業生、あるいは若い卒業生たちとなら、いろいろ話をしてみたい。しかし同年齢の人間たちが200名も一同に会する!こんなのテロ行為だ。オジン臭い、オバン臭くて、息もできないにちがいない。そんなのに行けるか。