Zaw 1 Elephant Vanishes

10月7日、東京大学現代文芸論立ち上げのための記念講演会というのに行ってきた。そのなかで沼野充義教授が、「象を呼べ」という話をされたが、この「象を呼べ」というのは、ハーヴァード大学におけるロマン・ヤコブソンンとナボコフの葛藤を示す逸話についてのものだろうと察しが着いたし、沼野氏の話もそれだった。


私がこのヤコブソン、ナボコフ、象の話を始めて聞いたのはいつだったのか、ひょっとしたら沼野氏がどこかで書かれたものを読んだからかもしれないが、けっこう昔のことだと思う。


また最終的にどういう話だったのか、分からなくなったのだが、私が覚えていたのは、ハーヴァード大学の教員に作家のナボコフを迎えようという話がもちあがったとき、当時、ナボコフと仲が悪かった言語学者ヤコブソンが、それは動物学会の会長に象をもってくるようなものだと語ったということだ。つまり作家は研究対象であって、研究者ではないということである。


私はこれは面白いと思って、国際シェイクスピア学会(いま、うろ覚えの名称なので、責任はもてない)の悪口に使ったことがある。いまは誰が会長かは知らないが、イギリスの名優ジョン・ギルグッドが国際シェイクスピア学会の会長の座についていたことがある(その死まで)。ギルグッドは名優であることは、まちがいないし、自身、オックスフォードかケンブリッジ大学を卒業したインテリ俳優で、演劇論や演劇に関する著作もあるので、ただの俳優というわけではないが、それにしても研究者ではない。それは動物学会が象を会長にしているようなもので、結局、箔をつける、あるいは一般受けを狙う、実に不純な団体である、と。


沼野氏の話では、「象学会が、象を会長にするようなものだ」となっていて、私が記憶していたのと少し違っていた。ネット上で少し調べたら、ある人物が、エピソードをこう紹介していた。ヤコブソンいわく、

I do respect very much the elephant, but would you give him the chair of Zoology ?

「象に、動物学担当教授のポストをあたえるか」という意味なる。「会長」でもない。「象学会」でもない。


ただそのときの沼野氏がきわめて興味深かったのは、なぜ「象」なのかということに沼野氏は触れられ、これはアメリカン人の好きなエレファント・ジョークではないかということだった。


エレファント・ジョークを一言で説明するのはむつかしい。そもそも私自身、なんであるのかよく把握していないのだが。まあ象を登場させるジョークで、図体の大きな、融通のきかない、それでいて何を考えているのかわからない、また凶暴というよりも愛嬌のある象をめぐるナンセンスなジョークとでもいおうか――自信はないが。


ガス・ヴァン・サント監督の映画『エレファント』というのは、有名な評判になった映画(ガス・ヴァン・サントがハリウッドに魂を売ってからの映画では上出来な映画だがで、コロンバイン高校の高校生の銃乱射事件に想を得た作品だが、もちろん、映画のなかに「象」は登場しない。象は、収拾のつかない混迷をきわめる事態、あるいはその原因となるものというくらいの、寓意的な意味なのだろう。たしかにあの映画では、「象」を高校に呼んだ。そして高校生が無残にも殺されてゆき、殺戮に終わりがこないまま、映画は終わる。


今回の講演会にも、実は象が呼ばれていた。三浦雅士氏である。みんなが新コース立ち上げ(文学部長もきて挨拶をした)に関連する話(文学とは翻訳とか批評の話)をしているのに、ひとり思想系哲学系の――まあそれは底の浅い話なのだが――話をした三浦氏こそ、当日、呼ぶべきではなかった象は消えるべきだった。


現象という言葉が好きな三浦氏は、当日、なんでも「言語現象」だといいはり、構造主義華やかなりし頃の、あるいはLinguistic Turnの時代ならまだしもの、言語至上主義を展開して、うんざりした。そんな言語至上主義を否定するような事例でも、「それが言語至上主義なんですね」。三浦氏にかかれば、なんでも言語至上主義になってしまい、これでは、味噌も糞もいっしょくたの話ではないか(まあどちらかといえば糞が多い話ではあったが)。肉体とか身振りの問題は、そんなものはベンヤミンの身振り言語とか、ブレヒトとGestusみたいなもので、十分承知している。いちいち教えてもらわなくていい。イーグルトンはポストモダンの時代では「身体body」がお題目のように氾濫していることを嘆いてたが、三浦氏の話では身体も言語現象になる――せめて肉体現象といってほしかったぞ。またゲーデルの定理をもちだして、これもまた言語現象だというにいたっては、一昔前の、政治化する前の『現代思想』の誌面を思い浮かべて、ちょっとなつかしかったが、そんなのゲーデルの定理を理解していない証拠だ。ちなみに今月は岩波文庫からゲーデルの『不完全性定理』が翻訳出版されるので、みてみるといい。生の定理は、専門家でなければ、咀嚼もできないものだし、それをわかりやすい例をあげながら説明するとき(たとえば「自分で髭をそらない男なら誰でもその髭を剃ってやると、男の床屋が言ったとき、その床屋の髭は誰が剃るのか」というパラドクス)でも、言語現象はないだろう。


とはいえ、三浦氏のことを批評家、思想家として尊敬していたので、それもまた元気(あるいはから元気)の証拠と、聞いていた――次の発言があるまでは。


今回の講演ではO氏の「現代批評でこれ以上続いてはならないこと」という話があって、あいかわらずの早口の言語不明瞭な話し方なので、どこまで理解しているのか、私は心もとないのだが、前半は20世紀から現代にいたる批評(主に英米の)の流れを、後半は、一転して、ある本への批判が展開した。前半と後半のつながりがよくわからなかったのだが、そのO氏の話のなかで、批判されていた人物について、第二ラウンドとでもいうべき場で、その父親を個人的に知っているという三浦氏は、このことを本人とかその父親に伝えるぞと、批判者を脅すような発言をした。同席した柴田氏も、そのことは伝えないほうがいいでしょうと語ったが、まあ柴田氏にしてみれば、批判とか論争を嫌って穏便に収めようとした軽い発言なので、とくに問題としないが、実はそのときO氏の発言は、O氏の匿名のブログ(公然の秘密だが)で展開している批判と全く同じで、誰もが知っている、そんなに珍しいものではない*1


また私はO氏の考え方に全面的に賛成なので、いずれO氏が本格的な反論をどこかに、発表するだろう期待しているのだから、O氏の側が批判を引っ込めたり、自主規制する理由はまったくないと思うし、自主規制したほうがいいことを匂わせるような脅しをかけた三浦雅士は、その瞬間、私のなかで思想家・批評家から、最低の編集者・出版人に成り下がった。


べつに編集者・出版人だから悪いというのでは決してない。業界内の縄張りを守り、外部あるいは内部からの批判的な発言を封じ込めて、自分の知り合いの利益を守ることだけに汲々としているのは、編集者・出版人としては、最低の部類に属するといいたいのだ−−まあ偉くなった人間はみんなそうなるのかもしれないが。今回の講演会では、狭い縄張りを越えて越境的・横断的な観点から、お前のような象も、越境的に呼ばれたのだろう。だが、そのような越境行為は、お前の縄張り意識によって、お前こそちっちゃな縄張り人間であることを露呈したも同じではないか。あまりにも哀れだ。老兵は、去るのみ。これ以上害毒を垂れ流さないうちに。

*1:当日の講演会に行かなかった人のためにいうと、結局「これ以上続いてはいけないこと」は何だったのかについては、講演会の聴衆だった者たちのあいだで、「計算違いをしてはいけない」というのがその答えだと、笑い話になっていることを、ここに付け加えておきた。そのブログを知っている人ならよくわかる笑い話ではあるが。