劇場消失

三百人劇場で『夏の夜の夢』を見てきた。三百人劇場も実は久しぶりだったのだが、劇団昴シェイクスピア劇は、いかにも芝居を見た(よい意味で)という感じで、心地よかった。昨年池袋の芸術劇場中劇場でみたロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの、ごみ置き場で暴走族とホームレスが芝居を演ずるという『夏の夜の夢』は、趣向は面白かったのだが、全体として気の抜けた芝居であって、それにくらべたら、こちらの芝居のほうがはるかによかった。


三百人劇場は、こじんまりとした劇場だから、どこにいても良く見えるし、小さな舞台だけれども、大きく感ずるしと、どれをとってもよいことづくめなのに、私自身最近は行っていなかったことが、結局、三百人劇場がなくなってしまうことの原因なのかと寂しく思う。


翻訳は劇団昴だから福田恒存訳である。福田訳のシェイクスピアの台詞は、たとえば、最近、メディアとか、まあ舞台でも聞かなくなった、精神異常を示す用語とか、目が不自由な人のことをいう言葉を連発するものだったが、それを除けば、日本語の美しさにけっこう感動した。そこには小田島訳にはない格調のようなものを感じたし、言葉一つ一つが、引用可能な独立性を帯びている。


たとえば金城一紀の『GO』は、『ロミオとジュリエット』の有名な薔薇の名前のところをエピグラムに使っているのだが(また作品自体が、『ロミオとジュリエット』の現代版という感じなのだが)、またさらにいえばそのフレーズ自体、作中にでも出てくるのだが、いかんせん、使っているのが小田島訳のふぬけた表現なので、ぜんぜんかっこよくない。それは行定薫監督の映画版でも使われているのだが、小田島訳の台詞は、印象に残らない。


やや専門的なことをいえば、『ロミオとジュリエット』の頃のシェイクスピアは、引用可能な、つまり作中のコンテクストとは無関係な、独立性の強い名句で台詞を構成していた。いうなれば台詞が人工的で人物と有機的な関係を結んでいない。やがてシェイクスピアは、コンテクストに依存する台詞を書くようになる。台詞が人物の行動とか心理と緊密な関係をたもち、なかんずく日常的な平易な言葉が、コンテクストのなかで驚くほどのエネルギーを発するように仕組んだのだ。


小田島訳は、しょうもない駄洒落が多い、つまりオヤジギャグ満載で、ときとして不愉快になるのだが、基本的にコンテクスト依存度が高い。ジュリエットの薔薇の名前の台詞は、名台詞でコンテクストを知らなくても引用可能で理解できるのだが、小田島訳は、14歳の小娘が、せいいっぱいかっこいい台詞を言ってみました的な表現になっていて、表現の強度というのが弱い。引用しにくい表現になっている。


最近、名作を「です・ます」調で訳す文庫(一部の作品)が出ているのだが、これもコンテクスト依存度を強くする翻訳になっていることが多い。つまり作中人物とか語り手の境遇なり性格なり語りの条件を考慮すると、「でず・ます」調になるという、ある意味で糞リアリズムに依拠しているのである。しかし文学作品は実生活の記録であるというよりは、文学表現であって、なんだかんだいっても人工的な表現の世界を出現させるのであり、かっこいい台詞の表現を聞いてみたいと思う欲望に支えられているのだ。つまり年がら年中レトリカルな表現をしている人間が日常にいたら、そいつはただのきざったらいしい馬鹿だけれども、文学の世界では、そういう人間がいて欲しい。これは一昔前の文学観かもしれないが、しかし文学のなかにしびれる表現を求める欲求はいまもあるし、それなくしては文学は成立しないだろう。


三百人劇場に話を戻せば、そう最近は映画も上映しなくなった。松本俊夫監督(懐かしいぞ)の映画特集で『修羅』とか『薔薇の葬列』をみたのも、実は、三百人劇場だった。オリヴィエの『ハムレット』映画を見たのも三百人劇場だった。ここに挙げた作品はどれもいまでは簡単にDVDで手に入るのだが、ヴィデオやDVDが一般化する前は、いったん見逃した映画や過去の映画を観るチャンスというのは、ほとんどなかった。だから当時、私にとって貴重な映画の多くを三百人劇場でもみた。もちろん芝居もみたのだが。そして最近三百人劇場に行かなくなったと思ったら、なくなる話にでくわした。


三百人劇場は、私が大学生くらいに出来た劇場である。それがその生涯を終えるのかと思うと、感慨深いものがある。