翻訳者は裏切り者

アマゾンで、サイードの『フロイトと非-ヨーロッパ人』の翻訳書の頁をみていたら、読者からの評価が低いことを発見した。その翻訳の日本語に対してである。


まあ、こんなことを書くと、私自身の翻訳だって、どこかのサイトでは、ぼろくそに書かれているかもしれないので、天に唾するようなものかもしれなず、差し控えたほうがいいのかもしれないが、翻訳者は長原豊である。だったら安心。こいつの翻訳は、ジジェクだろうが、なんだろうが、全然わからない。早いだけがとりえかもしれないが、わかりやすいきちんとした日本語を作る能力はありません。私は、これだけは断言できる。同じ考えの人間は多いだろうと予想する。


原書を購入したとき、私はそれを一日で読んだ。べつに自慢しているわけではなく、薄い本なので、誰だって1日で読める。英語は、こういうアカデミックな本であるので、講演会の原稿とはいえ、きちんとしたアカデミック・ライティングであり、すらすらわかるものでない。しかし同時に明晰で論理で構築された英語である。かつて日本に講演に来たあるアメリカ人英文学者は、保守的な立場の老人だったが、サイードの英語を褒めていた。名文だと。敵にも褒められる英語なのであって、丁寧に、わかりやすく翻訳することは、むつかしいことではない。それがわかりにくい翻訳として、読者から反感を買うというのは、驚きである。


またこの翻訳は、長原豊の解説だけでは短いと思ったのか、鵜飼哲氏の批評的エッセイも収録している。私は翻訳は持っているのだけれど、残念ながら、その二人の文章は読んでいない。私にとって二人が同居することなどありえないからだ。


長原豊とは、ある学会のシンポジウムでいっしょになったことがある。そのシンポジウムの後、シンポジウムの内容を雑誌に掲載するとかいうことで、メンバー全員、メンバーの一人が所属している大学の研究室に集まったことがある。


そのシンポジウム自体は、評判が悪かった。私自身は、無難なシンポと思ったのだけれど、また質疑応答場面ではけっこう異様に盛り上がったのだけれど(聴衆から熱のこもった批判的意見もあったのだけれど、私を含め、誰を攻撃しているのかよくわからなかった(いまにして思えば、私だったりして))、またメンバーそれぞれ言いたいことは言ったので、よくないシンポといわれても、まあ、どうしようもないのだが。


私は別の面でそのシンポには批判的で、そのことはあるところに書いた。日本文学におけるヘテロセクシズムを扱ったそのシンポは、ヘテロセクシズムを相対化する視線に貫かれているわけだから、当然、同性愛、クィアといった問題ともからんでくる。それはそれでいいのだが、シンポで発言したメンバーのうち、私を除く全員が、自分は結婚していることを、なんらかのかたちで公言したのである。私もいろいろなシンポに参加したり見たりしてきたのだが、メンバーみずからが自分が既婚であることを公言するシンポなんて聞いたことがない。見たこともない。


こういうシンポで発言し、こういう研究をしているのだけれど、自分は同性愛者じゃありませんよという信号を出しているのだろう。長原にいたっては、発表の最初のほうで、「自分のようなガキのいない夫婦は、このヘテロセクシズムの社会では存在しちゃいけない」(「ガキ」と言った)と話し、私も思わず、だがおまえはちゃんと存在しているじゃないか、とか、アメリカにおける不倫の疑惑はどうしたとか、つっこみを入れようと思ったものの、まあ、それはガキみたいだからやめた。


要は、黙っていたら同性愛者とまちがわれるということだろう。まちがわれたっていいじゃないか。なにがまずいのだ。ある人物が、自分はどこどこの町の出身だけれど、部落出身じゃないと語ったことを触れて、そいつはほんとうに見下げた人間だと、私に報告してくれた人がいた。部落民とまちがわれたっていいじゃないか。差別したり、さげすんだりするほうが、まちがっている。同性愛者とまちがわれてもいいじゃないか*1。まちがわれるのが嫌だというのは、それは差別だ。結局、私を除く全員が、自分は結婚している異性愛者だと暗に語ったわけで、はっきりいって見下げはてた。それこそが、そのシンポで相対化しようとしていた、ヘテロセクシズムの機制そのものにからめとられている証拠ではないか。


その後、成果を発表するという雑誌の打ち合わせのあと、私たちは近くの居酒屋で宴会をした。そのときのことである。雑談のなかで、長原豊が、あるフランス関係者で、女に色目をつかういやらしい奴がいると非難しはじめた。みんながそれは誰だと知りたがった。その名前を言わずに、たとえば、これこれの席で、発表したあとで、どうだといわんばかりに気取って構えている奴がいて、それを潤んだ目で見ている女たちがいるんだというような内容の、まあ悪口である。


いったいそれは誰かのことかと、追及されて、長原は、それは「おふら〜んす関係者」の鵜飼哲だと言い出した。


そのとき、私と、そこにいたある女性は、まったく同じコメントをした。だって鵜飼哲氏は、おばさんみたいな人じゃない(見た目の判断だが*2)。


女に色目を使うとか、もてるもてないとかというのは、結局、ヘテロセクシズムに支配されている価値判断にすぎなくて、シンポを離れたら、すぐにもうヘテロセクシズムにどっぷりつ浸かるのかいととも感じたのだが(もっともそれは長原ひとりのことだが)。


そして数ヵ月後、サイードの『フロイトと非-ヨーロッパ人』の翻訳を手にした私は、そこに翻訳者として長原豊の名前があるのは、いいとしても、鵜飼哲解説とあって愕然とした。たしかに長原は鵜飼哲を思想的に批判しているわけじゃなくて、人格を攻撃しただけである。立場は同じかもしれないので、いいのかもしれないが、しかし見方によっては、思想攻撃よりも人格攻撃のほうが嫌悪の度合いは強いのではないか。だとしたら、いっしょに名前を並べるというのはどういうことだ。ショックで、私はその翻訳をひもといていない。まあいずれ誰かが訳しなおしたほうがいい(私の知り合いの学生なら誰だって確実にもっとうまく翻訳する)。


長原は裏切り者だ。

*1:誰だって、同性愛的欲望はもっている。誰もがバイだ!

*2:この反応も問題だが!