神話作用


以前、八王子にある大学で非常勤で教えてた頃のこと。第二部の授業を終えて、キャンパスから最寄の駅まで運行されているマイクロバスに揺られていたときのこと。当然、マイクロバスには授業を終えて帰宅するほかの教員もいる。その日は、経済学部の先生たちといっしょだった。私は彼らの何人かの顔を知っていた。私は彼らに知られてはいなかった。


彼ら数人の会話を、聞くとはないし聞いていると、英語教育の話をしている。英語の教師連中は、シェイクスピアなんか読ませて、好き勝手な授業をしているのだからと批判している。ここでいうシェイクスピアというのは、まあ、文学作品の代表であって、文学部の英文科出の英語教師なんて、実用性を無視した授業をするまったく無能な連中だということだろう。


しかし、私はその時、無能なのはおまえらじゃ、このドアホと思った。こういう連中が大学で経済を教えたり研究していて、日本の経済がここまでやってこれたのは奇跡といえるし、あるいは日本の経済がまだ未熟なのはこういう馬鹿経済学者がいるからだとも、どちらともいえるのだが、まずあきれかえった。


実は、経済学部の教員は、英語の教員なんて、文学作品、たとえばシェイクスピアしか教えていないと本気で思い込んでいるんだから困ったものだと、先輩の同僚たちから言われたことがある。私としては、そんなこともあるかと半信半疑だったのだが、そのとき、経済学部の教員たちの話を実際に聞いて、それがたんなる噂話とか嘘ではないことがわかった。思い出せば、その時、話しの内容は、年配の指導的立場にありそうな教員の主張が支配的だったが、その教員の話を、誰も、反論もせず、首肯しているという感じだった。


実際、経済学部の学生にむかって英語教員がシェイクスピアを教えるなんてことは絶対にありえない。シェイクスピアは古い英語だから、いまの学生にはわからない。教員だって、うまく説明できるかどうかわからない。ましてや経済学部の学生に向かってシェイクスピアを教えるなんて、絶対ないにない。だって経済学部の学生は、馬鹿だから。


まあ英語の能力だけで、学生の良し悪し、馬鹿さ加減を判定するのは英語教員の悪い癖であって、英語が出来なくても優秀な学生、総合的にみて良い学生はいくらでもいる。だから総合大学のなかで経済学部の学生が、他大学の学生に比べて出来が悪いなんてことは絶対にないのだが、こと英語能力に関して言うと経済学部の学生は最低である*1


ただ、こう書くと、経済学部ほど英語を重んじている学部はなく、大学院の授業はいうにおよばず、学部でも英語で専門の授業を行なっているところは多いと思われるかもしれない。しかしどこの大学でもどこの学部でも、英語的にみて優秀な学生はいる。そうした学生だけを対象として、アメリカの大学院で洗脳されて、日本社会をアメリカ化することに使命感を燃やしている馬鹿経済学者が英語で授業をしているだけであって、残りの最低学生たち(英語的に)の教育は、英語担当教員という奴隷にまかされているのであり、さらにいうなら経済学部学生の英語能力の惨状を糊塗するために、多くの経済学部で英語を必修からはずしている(必修逃れでないことを祈るだけだが)。一部のエリート学生とその他の馬鹿学生。エリート経済学者と奴隷の英語教員。経済学部は、大学のどの学部よりも格差社会である。


もちろん私も馬鹿大学教員のひとりなので、ついつい学生の悪口が出てしまうのだが、それは慎むべきであって、問題なのは、そう、いまから20年いや30年近く前の夜のマイクロバスのなかでの出来事だった。このとき私が、いえ、英語教員として一言といわせてもらえれば、そんなシェイクスピアしか教えていていないなんてふざけたことがどうしていえるのかと食って掛かるか、もっと穏やかに実情を説明することもできただろう。ただそれは、彼らが私のことを英語教員だとは思っていないこと、だから、その中にいた唯一の英語教員である私にむかって喧嘩を売ってきたのではないこと(私は売られた喧嘩には必ず応えるというのを原則としているが、自分からは絶対に喧嘩しない)、さらに、万が一、私が熱弁をふるって彼らに現状認識のゆがみを正すことができたとしても、そんなことはすぐに忘れ去られてしまうだろう。なぜなら彼らは現在の英語教育について、文学部での英語教員が文学作品を教材にして行なっているという全く事実無根の神話を語り続け、英語教育が無意味な非実用的なものであるということを主張しつづけているからだ。つまりありもしない事実を、真実と誤認しているのだが、そしてそのほうが、都合がいいので、彼らも神話を正そうとはしない。


それから10年か15年以上経てからのこと、私よりは20歳くらい年上の英文学研究者(その頃はもうすでに大学は定年退職されていたかもしれない)の方と同席したとき、その人は私にむかって、「君のところの大学の経済学部の先生とゴルフ仲間でよく会うのだが、彼にいわせると、学習院大学の英語の先生は、シェイクスピアを教材に使って好き勝手な授業をしているそうじゃないかい」(とはいえシェイクスピアを教材に使ってという話だったかどうか、たんなる文学作品だったかもしれないが、やや記憶が定かでない)というので、私はそんなことは絶対にないと否定した。「私は今年は、英字新聞と英語ニュースを教材に使っているし、専門の授業以外で、文学作品を使ったことはないと」と語った*2。まあ、心の中では、おめ〜も、英語教員だったんだろう、そんなことはないと、その経済学部の馬鹿教員に言ってやれよと思ったが、まあ、そこはこらえておいた。


私が以前属していた学習院大学の英語教育の名誉のために力説しておきたいのだが、学習院大学の英語教育では(他の大学の英語教育でもそうだと思うのだが)、経済学部の学生に文学作品を使った英語の授業はしていない。なぜそういえるのか。たとえば簡単なわかりやすい英語で書かれたり、会話の多い文学作品なら、高校の英語教育の延長線上にものっかるので、英語学習のモチベーションを高めることはあるが、あいにく、経済学部の学生相手だがら、英語力の程度が低すぎて簡単な英語という概念が通用しないという現実の制約もある。しかしそれ以上に決定的なのは、これはまたどこの大学でもそうなのだが、英語の授業で使う教科書は、公表されている。リストは、教科書売り場に毎年張り出されるだけでなく、文書としても配布されたり、見ようと思えば簡単に見れるようになっている。そのリストをみてから文句を言え馬鹿経済学部の教員よと言ってやりたい*3。これは私が昔着任する前から続けられていることであって、20年あるいは30年以上の伝統があることなのだ。にもかかわらず、シェイクスピアを使って授業をして喜んでいるなどという馬鹿げたことが言われる。神話作用なのである。


現在、私は経済学部の教員や研究者と接することはないし、また私自身、英語教育は担当していないので、もう過去の思い出にすぎないが、しかし、現在、授業とカリキュラムさらには外国語教育の改革などの点で、経済学部の教員と協議したり交渉する英語関係者も多いと思う。とりわけ若い人にむけていえば、ここに書いている神話作用の支配下に経済学部教員があることは、肝に銘じておいたほうがいい。

*1:以前、英語教育の教務委員をしていた頃、次年度の時間割を作ったときに、外国人教員からクレームがついたことがある。というのも機械的に作成した時間割では、その外国人教員が次年度、経済学部の英語の授業を多く担当することになってしまったからだ。自分は毎年経済学部の授業を必ずひとつかふたつ持っている。来年度それが倍になるというのはひどいじゃないかといわれた私は、そのクレームの正当性を認め、次年度の担当教員をなんとかやりくりした。誰だって経済学部の授業は担当したくない。

*2:これは事実で、日本で発行されている英字新聞は、英語もわかりやすいし、話題も身近だし、さらに毎年内容をアップデート化する教科書も出版されている。また英語ニュースも、本場の英米のニュースはテレビであれラジオであれ、教材としてはなかなかむつかいしが、日本の衛星放送の英語ニュースは日本の英語学習者にとて英語もわかりやすいし、またそれを使った教科書も出ている。

*3:もちろんこのリストとは別にこっそりと文学作品を教材に持ち込んだり、あるいは教科書を決めずに、自分で教材を用意する教員もすくなからずいるので、それはと疑われるかもしれないが、また同じところに戻るのだが、英語脳がまったくない経済学部の学生にむかって文学作品を、ましてやシェイクスピアを使う馬鹿英語教員はいない。