盗作の森


20世紀のことだが、ある大学の大学院の授業(非常勤だったが)で、新歴史主義関連の論文を集めたアンソロジーを教科書として使ったことがある。


参加する院生は、担当論文を決められ、その論文の内容をまとめ、気づいたことをコメントするという形式で授業はすすんだ。英文学史上の、まあ有名な作家の作品なり関連したトピックスをめぐる論文が多かったのだが、ある学生が発表を終わり、質疑応答などがひととおり終わったあと、その学生に、「この大学のX先生も、たまたま、いまここで読んだ論文が主題としているYという詩人やその周辺が専門なのだけれども、そのX先生の研究と、この論文の新歴史主義的姿勢を比較してみるとどうですか?」と私は尋ねた。

その学生は、口ごもって、答えようとしない。このとき、私は失敗したと思った。


というのも、もしその学生(女性)が、こで読んだこの論文のほうが、X先生の論文よりも刺激的で面白いなどといったら、他の院生がX先生に告げ口をするかもしれず、その院生の立場が悪くなる。しかしまた、この論文よりもX先生の論文のほうが優れているとか、よいとか言ったら、私のその院生に対する印象が悪くなるかもしれない。どちらが良いといっても、誰かを傷つけることになり、それは究極の選択というか、ダブルバインド的選択で、答えられなくなるのも当然だった。幸い、時間もきたので、今日はこれまでと授業は終わりにした。


その授業のあとだったか、その次の授業のあとだったかは、忘れたけれども、担当した学生に、私は呼び止められた。「実は、私が担当した論文と、X先生の研究との比較なのですが、ここにX先生の本の一章があるのですが、私が担当した論文と、なんていうか、同じなのです。それで先生の質問に答えられませんでした。X先生の論文を、見ていただけませんか?」というので、私はX先生の本の一章のコピーをもらった。彼女(その学生)は、ダブルバインドよりもさらに重大な問題に直面していたのだ。


ざっとみるだけでも、授業で読んだ英語論文とX先生の日本語の本の一章は、まったく同じだった。はっきりいって盗作といって良い。有名な詩人の有名な詩を対象とした議論なので、内容が似通ってくるのは当然であるが、盗作といえるのは、議論の流れが同じで、出してくる引用も。引用の順番も全く同じであるからだ。また新歴史主義の英語論文では、当時の珍しい文献のなかの記述をとりあげ、それが契機となって議論のなかに新しい視点が導入されるのだが、X先生の議論でも、全く同じところが引用され、議論が新しい展開をむかえるのだが、その引用の出典が書かれていない(あたかも、有名な引用で、あえて出典など記す必要もないという感じなのだ)。


とにかく、その資料は珍しいもので、簡単に読めるものでもないし、新しい発見といっていいのである。もしX先生がほんとうに自分で発見したのなら、もう少し、威張ってもいいはずだ。新発見ということを強調してもいい。もしそれがX先生の新発見でないなら、新発見をした先行研究に言及すべきである。しかし言及できない。なぜなら、X先生は、その先行研究から、作品からの引用箇所、議論の流れ、結論までごっそり盗んでしまったのだから。言及しようものなら、自分の研究が盗作であることがばれてしまうからである。


そしてつくづく思う。人間誰しも、ずるをすることがある。読んでいない本を読んだふうに装ったり、孫引きなのに、直接引用したかのようにしたり、解釈のアイデアを黙って盗んだりと、研究上、いろいろ不正はあるが、またそれらは、容認するつもりはないが、理解できないわけではない。人間はずるをする動物なのだから。しかし、ひとつの論文を、そっくりそのまま、議論の流れから、引用も同じ(それも引用する順番までも同じ)というのは、もちろん容認するつもりもないが、しかし理解もできない。ばれないと思ったのだろうか。そこまで堂々とすれば、盗作ではないと言い逃れできると思ったのだろうか(逆で、こんなに類似していたら、偶然の一致という言い逃れはできないだろう)。


このような明白な盗作を前にして、彼女は、X先生の本の一章は、いま報告した英語論文のまったく盗作ですとは、さすがに言えなかった。と同時に、このまま見過ごすわけにはいかなかったのだ。


このとき私は、彼女にふりかかった運命が私にもふりかかったことを思い出した。


私が大学院生のとき、その授業の担当教官(私の指導教官ではない)が、関連論文を紹介し、その内容を報告する役割が私にまわってきた。これは本の一部だったが、興味深い論文で、私としては、無難に内容を要約したと思う。担当の教官からも、その論文についてどう思うかと聞かれ、とても刺激的で興味深い論文でしたと、もごもご言うしかなかった。


というのも、その論文は、実はその先生が、最近出された本のなかの一章と全く同じであることを、私は論文を読んで発見したからである。アイデアが似ているとか、観点が同じとか、結論が同じということではない。途中も同じなのである。議論の展開、引用箇所も引用の順番も全く同じ。盗作するにしても、少しは工夫したらどうかと、ほんとうに不思議に思った。ただ英語論文で取り上げられている最後の事例とその解釈は、ここまで突き放して考えるのかと、ちょっと唖然としたのだが、その教官の論文(本の一章)でも、最後の部分は、読者から反発をくらうかもしれないと思ったのか、英語論文の議論と解釈は採用せずに、自分の言葉でさらっと終えていた。


ただ、それにしてもこの正々堂々振りはどうなのだろう。ここまでごっそり盗んだら、言い逃れできないだろうにと思うとともに、その英語論文を盗用したといってよい、その先生の本を、院生である私は、当然読んでいるはずである。ということは、私は試されているのか。その先生の本が盗用したとことの、もとの英語論文を読まされた私は、両者の関係に気づくはずで、そのとき「あ、先生、やっちゃいましたね〜」と茶目っ気たっぷりに授業中に発言していたほうが良かったのだろうか(そんな芸と勇気は、いまもって持っていないが)。あるいは明白な盗作の事例を見せ付けられ、沈黙を貫くことで、私の忠誠心が試されたのか。あるいは私がゆするとでも思い、私の人格を試していたのか。いまもってわからない。私は何も気づかないふりをして、やりすごすしかなかった。


まあ、昔は、みんな外国のものだからといって、つぎからつぎへとパクっていたのだとは、よく言われることである。しかし、先ほどのX先生も含め、ふたりとも盗作をするような学者には見えなかったので、よけいショックだった。万引き程度の(とはいえ許すつもりはないが)軽犯罪ではなく、堂々とした窃盗であったこともショックだった。


ちなみに苦しい立場に置かれたその女性の院生は、いまこの世にはいない。2002年若くして亡くなった。彼女は天国には、英文学研究のよい思い出をもっていってはいないだろう。それが残念でならない。