私は診断書を忘れた

**君、ここに書いてあることは、事実だよ。まあ初期には、意図的に虚構か事実かをぼかしたところもあるし、イニシャルが機械的であったり実在の名前を反映したりして混乱したかもしれないけれども、ここ2ヶ月はすべて真実。**山の与太話とはちがうのだから。


旧聞に属するのだけれど、私が所属する大学の文学部の教授会における過去の文学部長選挙がおこなわれたときのこと。開票が進み、ある教授が次期文学部長に選ばれた。そこまではよいとして、選ばれた教授が、文学部長を辞退すると言い出したのである。健康上の理由をあげて。


簡単に言えば、学部長職のようなものは激務で、体調がすぐれず持病のある自分のような者には責務を全うする自信がないと話し、ここにと、おもむろに主治医の診断書を持ち出したのである。


いろいろもめたうえ、辞退を認めた上で、選挙をやり直した。その結果、最初二位だった教授(現、学部長)が圧倒的多数で、選出された。1位、2位というのは、年齢の高い順であり、現学部長は、候補者の年齢順からいったら5位以下なので、2位というのは、異例の任期と信頼を物語っている。


しかし、いくつか疑問点もある。最初、選ばれた教授は圧倒的多数で選ばれたわけでなく、何度も選挙を繰り返し、上位3名を対象として決選投票によって決めたのである。だからいわゆる下馬評によって、その教授を学部長にすることが暗黙のうちに同意されていたわけではない。


とはいえ、おそらくどの大学でも同じであろうが、文学部も、思想系とか歴史系とか文学系とか心理系とか社会学系などに分かれていて、学部長は、1)有力な候補が事前の選挙活動をした場合、2)緊急の課題の解決にふさわしい人物とか系列が浮上したりした場合は、おのずと、そうでないときは3)なんとかく系列からローテーションによって決まるというのがふつうである。したがってつぎに自分がなりそうだとか、自分が属する系列になりそうだということは、確定的ではないけれども、なんとなくわかる。


辞退した教授が、次は自分が選ばれる可能性が高いと予想したといても(同じ系列内で想定される候補者のなかでは年齢が一番高い)、それほど不思議ではない。と同時に、最初の時点で、繰り返すが圧倒的多数あるいは過半数を獲得したわけではない。


なるほど病気を理由に出されては、そこをなんとかと頼んだりして、過労死でもされたら嫌だから、やはり強く言えないことも事実だろう。医師の診断書もある。


しかし医師の診断書なるもの、たとえば現在、これこれこういう病気で、治療中もしくは治療予定ということで、会社を欠勤した/欠勤せざるをえないということを証明するというのならわかる(とはいえ診断書の正確な、あるいは一般的な定義がどういうものか、正直なところ知らない)。また最近話題になっているように、数日出勤しただけで3年間欠勤し、その間、給料が支払われていた役所の話では、医師の診断書が病欠の理由になったのだが、その記載は虚偽であった。これはまずいとしても、虚偽でなかったら、あるいは内容に関し、医師側の責任が問われないなら、簡単に診断書か書くだろう。


たとえば、「この人物は健康で今後二年間はどのような激務に耐えられる」という証明書を出す医師はいないだろう。どのような激務で過労死するかもしれないし、またその時点では発見できていない病気があったりするかもしれない。期間限定でも、この人は絶対に病気なり体調不良で死ぬことはないと保証するのは危険な賭けである。ところが期間限定でも、激務だとこの人は重大な病気になる、あるいは死ぬかもしれないという証明書なら、いつでも、いくらでも書ける。そのような診断書を無視して激務に着かせることは少ないだろうし、もし激務につかされて何事もないとしても、それは注意を怠らなかったとか、運が良かったということになり医師の責任がとわれることはない。またその診断書に従って、仕事を控えさせれば、何事もないわけで、よかったということになり、予言のあたりはずれは問題にならないことにある。予言がはずれたからといって責任は問われないだろう。また中年以上であれば、誰だって、どこか悪いところもあり、激務で悪化する危険性は常にある。予言がはずれても、そのような警告と診断書を出すことで褒められこそすれ、責められることはない。


要するに、そういう診断書は意味がないのだ。当人が大きな手術をして病後に留意すべきであるとか、定期的な治療が必要で、激務には明らかにむかないとか、重篤な病気が発見されて、入院措置が必要というのでないかぎり(なお最初に選ばれた教授は、いずれの場合でもなかった)、誰だって激務で死んだり病気になる可能性があるのだから。つまり、この人はいまから一世紀以内に死ぬという予言と同様、そんな診断書に意味はないのだ。


実はこの学部長選挙の話をして、選ばれた教授が辞退したのだと、大学院生に話したら、「まさかその人は医者の診断書を持ち出したのではないでしょうね」という言葉が返ってきた。このいかさまめいた戦術は、案外、定番化しているのかもしれないと、そのとき思った。


今回、私には予想外のことで医師の診断書を用意するのを忘れた。