ふたつの映画

本日も昨日と同様に近所のシネコンで映画をみてきた。シネコンは東京都内になる。ふつうは東京以外のところにシネコンはあるものだが、私の行くところは、東京都の区内にある。まあ辺境地域と思われているのだろう。


昨日は、最近、少し時間ができたので、いつものように、大学の帰り、自宅のある駅から三駅目にあるシネコンでロードショーを見るということが先週から始まっている。夕刻から夜にかけての一人で過ごす時間を充実したものにしたいと思ったら、お金はかかるが映画館での2時間にまさるものといったら、そう簡単には見出せない。趣味の読書(とはしてどんな読書も、私の生活の中では仕事の読書なのだが)は、それに匹敵するかもしれない。音楽は、残念なことに私の守備範囲でなく、私を楽しませることはない。テレビは、おそらく私の頭脳を腐敗させる。文化現象としてのテレビには興味があるが、ヴァラエティ、ドラマ、報道などすべての映画は、私をむかつかせるので、楽しんでみることはない。


それにくらべれば映画館の2時間は、良質な映像(どんなにひどい映画でも、テレビの緊張感のない映像には勝る)、音楽と物語、現実の体験でもあり、また夢をみているようでもあるという二重性のなかを、自己の身体性を意識することなく、ウィークデーのがらあきのシネコンの大画面で映画を体験することの心地よさはない。それは私を、意識と感性を限りなく刺激する。


昨日は、アメリカの映画『氷の微笑2』を観にいくつもりだった。この評判の悪い映画のどこが評判が悪いか、あるいはそれでも見所はあるのではないかと、期待して。


しかし私は上演時間をまちがえていて、上演まで1時間以上あった。どうせ見たたくてたまらない映画ということでもないので、すぐに見れる映画を探して、『デス・ノート ラストネーム』と『7月24日通りのクリスマス』のうち後者を選んだ。メールである学生にこのことを書いたら、それは正しい選択という答えが返ってきた。『デス・ノート』は前編をテレビで放映して、それをみて全く観にいく気をなくしたと、その学生は語っていたのだから。


7月24日通りのクリスマス』は、まあ予告編でみた予想通りの映画だったので、期待はずれではなかったけれど、ちょっと物足らないものが残る。中谷美紀は頑張っていて、その演技は『嫌われ松子』のそれよりも、まさっているのではないかと思うのだが、漫画の世界を通して現実を見ている内気な女の子のモノローグから成っているので、彼女の内面は丁寧に描かれ、観客にもそれはよく伝えたれるのだが、彼女以外の、彼女をとりまく人物たちが、やはり平板化している。漫画の人物。大沢たかおにしても、あんな良い人はいないし、すべては主人公の女性の妄想ではないかという批判意識は拭い去れない。いくら劇団ひとりが、――無責任で。きざでお馬鹿なプレイボーイぶりを発揮しスケープゴートとなることによって――、ありえたかもしれない悪しき大沢たかおの代行者となっているとしても。まあ漫画だからとか、クリスマス映画なのだから、愛するものどうしが、クリスマスには結ばれるという定番があるのだからと割り切っても割り切れない。それに原作は漫画ではない。


不満は多い。その最たるものは、最後に照明アーティストである大沢たかおが、主人公の女性にプレゼントする照明のイルミネーションである。設定では、時間がなくて、即興的に用意したということになるのだが、だったら、そこまで大掛かりなものは簡単にはできなという夢物語的展開になっていると同時に、そこは知らん顔をするとしても、大掛かりな証明が実は、ちゃっちいのである。かけた費用の問題ではなく、センスがわるい。もっとうっとりするようなイリュミネーションができないのかと、ほんとうにずっこけた。


いや、ほんとうはすべて主人公の妄想でした。大沢たかおと結ばれるのも、妄想でした、あるいはその可能性が大きいという映画だったら、私的には面白かったのだが、それを阻むのが、あのイリュミネーションで、あんなちゃっちいのだったら、再会と愛の確認のセレモニーが彼女の妄想とは考えられないからである。


映画館では3組くらいのカップルにまじって中年オヤジの私がいて、計7名での鑑賞だったのだが、カップルになれない内向的な女の子の話なので、私のように一人で見ているぶんにはけっこう楽しめたのだが、すでにカップルになっている男女にとっては、面白い話だったか疑問。


で、本日21日も時間を間違えた。というか大学での用件も早く終わったので、『氷の微笑2』はあきらめ、かわりに『トゥモローワールド』(アルフォンソ・キュアロン監督2006)にした。同監督の映画は『小公女』『大いなる遺産』『ハリーポッター』(第3作目)などと見ているものの、メキシコ時代の代表作『天国の門』は見ていないのだが、あたりはずれのない監督の作品だが、いつの時代にも必ずつくられるディストピア物で決してB級の域をでない作品という軽い気持ちで見たこの映画は、その力強い映像に圧倒された。この監督の代表作になるにちがいない。


Spoiler*1
ジュリアン・ムーアが、最近の定番となっている追い詰められた主婦という役柄からは脱した*2、地下に潜伏する政治家グループのリーダーという珍しい役割で出ていたことも興味を引かれた。ただ残念ながら、早い段階で殺されてしまう。「ああ、首を撃たれたら助からない。これで終わりか」と心でつぶやいたのだが、そのとき一瞬、既視感に見舞われたのは、そう、『父親たちの星条旗』のなかでも首を撃たれたら云々という状況があったからだ。

既視感といえば、主役のクライヴ・オーウェンズとテロリストのリーダーとなるチュウィッテル・エジョフォーとの対決のときも漂ったのだが、それはスパイク・リーの『インサイド・マン』で二人が共演していたからだ。『インサイド・マン』ではデンゼル・ワシントンの部下だったエジョフォーは、クライヴ・オーウェンズとは対面しなかったと記憶するが(まちがっているかもしれない)、この映画では鋭く対立する両雄となる。


それにしてもエジョフォーにまた出あった。今年『インサイド・マン』『キンキーブーツ』今回の『トゥモローワールド』と三回、エジョフォーと出あった。それにいくつかDVDでも彼が主演している映画を見たので、今年当たり年だ。


Spoiler(さらに深いネタバラシあり)
内容は、原作を読んでいないので、映画から見て取れた限りの筋立てだが、近未来、子供がひとりも生まれなくなり、崩壊に瀕している世界のなかで、世界で一番若い人間の子供が殺されてから数日のち、長年待ち望まれていた子供が生まれる。その子供をめぐって、それを政治的に利用しようとするテロリスト集団とファシスト権力のはざまで、母子を人類再生機構のようなところへ(名前は違っているが)、送り届けようとする主人公の苦闘を描くもの。主人公は、その母子を送り届けるのだが、さらに主人公を含む三人を追う者たちと三人をかくまい助けるものたちとの闘争があり、その結果、母子を助けるために、つぎつぎと人が命を落としてゆく。主人公も任務を達成しながら、最後には死ぬ。


赤ん坊は未来への架け橋だが、同時に、死の配達者であって、彼女(女の子だが)を助けるために、多くの者たち命を落とす。それはたとえば重要な手紙を入手した者が、優位に立つはずが、逆に弱い立場になり構造の支配を受けるような(ポーの「盗まれた手紙」)、これをさらに敷衍すれば物が人間関係を構造化し、その物と手に入れた人間がつぎつぎと死んでゆくというサスペンス小説の常套手段となる。その物というのはたいてい現金かそれに類するもの(証券とか宝石)だが、映画Kiss Me Deadlyでは放射性物質であって、盗んだ者たちはみんな被爆する(そんな危ないもの盗むなといいたいのだが)。いずれの場合も、物語り、つまり物が人間を支配し、人間は物がたちあげるシステムなり構造に従属することになる。



あるいは今回の映画では赤ん坊とその母親をファシズムテロリズムの戦禍のなか、守りぬき、送り届けようとするのは、『プライヴェート・ライアン』と同じである。ひとりの人間を未来に送り届けるために多くの人間が死ぬ。構造を前に敗退するとみてもいいし、あるいは構造を前にして、そこに自らの身を差し出す、自己犠牲とみることもできる。もちろん自己犠牲ほど危険なものはない。自己犠牲は往々にして国家精神や民族精神に収奪される。美しい日本というファシズム。だが『プライヴェート・ライアン』でやや儀式めいたかたちで示された自己犠牲、あるいは『トゥモローワールド』でややパセティックにささやかに示された自己犠牲、それは国家や民族にみずからを捧げるというナショナリズムの対極にある行為なのだ。


赤ん坊をまもって命を捨てるというのは、生殖主義ではない。赤ん坊はどのような人間に成長するかわからない。つまり誰だってよいのである。自己犠牲の対象を選ぶのではない。またその人間の良し悪しで自己犠牲を選ぶのではない。誰でもいいのであり、また同時にこの自己犠牲は親が子供に示す自己犠牲がその典型となる。親子のつながりほど強いものはないかもしれないが、親子のつながりほど恣意的なものはない。親は立派な子供を選べないからだ。立派な子供に育てようとしても一種の賭けである。たいていの場合、くだらない息子や娘で終わる。それでもそのくだらない馬鹿息子や馬鹿娘を、あるいはさらに輪をかけてくだらないその孫たちを未来に送り届けるために死ぬのである。


プライヴェート・ライアン』でトム・ハンクスらが連れ戻しに行くライアンは、りっぱなまともな青年にみえる(マット・デイモンが演じていたが)。だから彼は自分を生かしてくれたトム・ハンクスの自己犠牲の意味を正しく知ることができたように思われる。しかし馬鹿息子、馬鹿娘でじゅうぶんである。彼らは親たちの自己犠牲の意味を最後まで悟ることはないかもしれないが、それが自己犠牲である限り、必ずいつかそれを知るだろう。問題は彼らがそれを悟るかどうかではなく、自己犠牲をできるかどうかである。彼らが悟らなくも、自己犠牲ならばそれで問題ない。まさに自己犠牲なのだから、自己犠牲行為が無意味に終わっても文句は言えないのである。また、それはむつかしいことではない。儀礼的なことでもない。日常的なことである。ナショナリスト天皇と国体のために身をささげるとすれば、私たちは家の馬鹿息子や馬鹿娘のために身を捧げるのである。あるいは隣の馬鹿息子や馬鹿娘でもいい。


問題は、後に残された者たちが、自分が死者に生かされていることを知るかどうかである。そして死者と対話するかどうかである。たとえば太平洋戦争で硫黄島*3で玉砕した日本軍兵士の子供なり子孫であるとしよう。その時残されたものが、アメリカ軍に復讐を誓い、アメリカ軍人をひいてはアメリカ人を次々と血祭りに挙げるとは考えにくい。また日本の軍備を強化して次の戦争には勝つと誓うとも考えにくい。もっともありえて、また望ましいのは、戦争のない社会を努力して作るということだろう。なぜそうなるかは説明しがたいが、ただ、死者に生かされていると認識する私たちは、生を構築することを目指し、死への傾斜を、死者への冒涜として慎むのではないかと思う。よりよい生の構築は、日本の再軍備化ではなく平和国家の建設であったはずで、その意味で、多くの死者に生かされていると認識していた戦後の日本人は、日本の歴史上、もっとも倫理的な人たちではなかったかと思う。


それがこのていたらくである。


『トゥモローワールド』では赤ちゃんが生まれなくなったという設定のほかに、かろうじて繁栄を保っているイギリスに世界各国から移民がやってくるのだが、鎖国政策を実施するイギリスでは移民たちを強制収容所に入れて虐待している。また虐待された移民たちがコミューンを作ったり、そこから逃げ出してテロリスト集団化している。収容所と市街戦。この映画は、現在の世界もこのままいくと近未来はこうなるという警告を発するディスとピア映画ではなく、これはSFではなく現在の世界そのものだということを実感させるにじゅうぶんなものがあった。たとえば収容所と市街戦とファシズム体制というのは現在のイラクそのものだが、同時に、格差社会に突き進み、社会が不安定化する移民社会でもあるアメリカそのものでもある。アメリカとイラクは、それほど違わない。そして世界はまさにアメリカ=イラク化につきすすんでいる。


こうした冬の時代に、わたしも未来に送り届けることのできる子供がいればいいと思う。私に子供は、馬鹿息子でも馬鹿娘でもいいが、いない。送り届ける子供もいない。しかし、誰でもいい、私が、そのために死んでなにかができる子供がいれば、私のつまらない人生も最後に唯一のともし火がともるのではないかと思う。


映画館からの帰り道、自民党のポスターが目に付いた。自民党総裁で首相の安部晋三の顔は誰かに似ている。小泉前首相とは違う、なにかオーラが漂っている。私はそれはちょび髭だと思った。私もいつか自民党のポスターを盗んでちょび髭を書いた安部晋三の写真を研究室に飾っておこうと思う。街中のポスターにちょび髭を書き入れておこう。

*1:昨日26日、ある学生と話していたら、私がまだ読んでいない推理小説のネタバラシをしやがって。地獄に堕ちろ。周辺では読んでいるか、読もうと思っている人間が多いと想定されるような作品の場合、評価を口にするのはよいとしても、内容に立ち入った話をするのだったら、ネタバラシが含まれますよと、あらかじめ警告を出すべきである。くそ。とはいえ、私も、このブログではやまのように映画のネタバラシをしているので、あんまり非難はできないか。しかしそれにしても、無神経すぎるぞ。

*2:たぶんそれはSafe以後だと思うが、トッド・へインズのSafeはよかったとしても、『フリーダムランド』までくるとさすがに食傷気味になる。

*3:これは昔は「いおうとう」と発音していたのだ。「イオージマ」という発音は「欧米か」と突っ込みを入れるべき発音で、そこで死亡した日本人兵士に対して、また日本の歴史と文化に対する許しがたい冒涜である。ぜったいに「イオージマ」(欧米か)という発音をしてはいけない。この点で、私はナショナリストだ。