文房具


以前、イアン・マッキューアンの小説『アムステルダム』を小山太一氏の名訳で読んだとき、その作品のなかで、ある特集プロジェクトを推進いていた雑誌社の記者たちが、最後にそれが頓挫して、それ以前の雑誌の通常の特集にもどるとき、思い思いに出した企画に――つまり矮小化された特集企画ということだが――、そのひとつに、「どうしてボールペンはなくなるのか」という企画があった。


ちなみに『アムステルダム』はオランダで制度化されている安楽死が重要な鍵となる作品だったが、しかし、その後、安楽死制度についての記事を読んだとき、簡単に安楽死はできないことがわかった。厳密な手続きが必要で(たとえば不治の病であることが医師によって保証されないといけない)、お金さえ積めば健康人でも安楽死できるというようなものではない。ただし非合法なかたちで、お金を払えば安楽死させてくれるところはあるのかもしれない。だったら、それはなにもオランダに限らないと思うのだが、『アムステルダム』はオランダでは、お金さえ払えば外国人も簡単に安楽死できるという間違った印象を与える点で、問題作である。


話をもどすと、政治スキャンダルを追う企画が頓挫した後、矮小化された安全な企画として提出された「ボールペンはなぜなくなるのか」は、それ自体で、人をうなずかせるものがあった。たしかに、ボールペンは、よくなくなる。しかも、それは私の家の中で消えている。どこに消えてしまったのか。


まあボールペンは高価なものではなくて使い捨てである。だから大切にする心がなくなるのかもしれない。逆に言えば高価なボールペンだったら、意識するからなくさないのではないかと思った。というよりも、三色ボールペンを買おうとしたら1000円のものがあったので、高いと思ったものの、高い三色ボールペンならなくさないだろうと逆に考えて、購入した。購入してから気づいたのだが、それは四色ボールペンで、さらにシャープペンシルにもなっている(クリップでノックして芯を出す)、きわめて優れたものであった。


いまは原稿などはコンピュータで作成するので、手書きということはなくなったが、校正は手書きである。そのときボールペンとシャープペンシルが一体化したものは、赤字を入れるだけでなく、メモを書いたりするときシャープペンシルに持ちかえる必要がない。実に優れものであった。


不思議とそれはいつも私とともにあった。なくさなかったのである。でも、やはりなくした。どこにいったかわからなくなった。


しかし、本日、それをみつけた。カバンのなかにあった。カバンの底にあったのなら、すぐにみつかるはずが、手を入れてもわからないへんな隙間に入り込んでいて、数ヶ月気づかなかったのだ。これで再会もはたしたので、また仕事にがんばれるかもしれない。でも、この話題は矮小化の極致か。文房具に完全に精神を支配されている証しか。