ロスト・イン・トランスレーション
T様
御翻訳をお送りいただき、ありがとうございました。
大学のほうで受け取りました。
さっそく読ませてもらいました。
翻訳のうまさに圧倒されました。
これはお世辞でもなんでもなく、ほんとうにうまくて、
語っているのが外国人であることを
忘れるほどです。
そしてまたまたそこが、
翻訳者の責任でもなんでもないのですが、
唯一残念なというか、運命の悪戯とでもいうべきことでしょうか。
イギリス人の語り手が現代の日本について語っているというシチュエーションは、
翻訳者にとって苦しいものがあります。
つまり今回のように、
一瞬いえ何度も語っているのが外国人であることを
忘れてしまいそうになるほど、巧みな日本語の翻訳であるのに、
「一瞬」とか「何度も」とか私が使ってしまったことからもわかるように、
次の瞬間、これは外国人が語っているのだと醒めてしまい、
翻訳の日本語と語り手の存在がシンクロしてくれないのです。
たとえばすぐれた翻訳なら、ヘーゲルが、
教養ある美しい日本語を話す大学教授のように
思えてくるという、イリュージョンが生じてもおかしくないのです。
(ヘーゲルというのはあくまでも喩えであって、他意はありません。)
ところがこのイリュージョンも、
もしヘーゲルが日本人相手に話しているというシチュエーションだったら、
いくらヘーゲルとはいえ日本語のネイティヴでもバイリンガルでもないのだから、
こんな流暢に日本語を話すわけがないと
その人為性に気づくのです。
今回の場合、
もしこの著者がインドの社会とか文化について、
みずからの体験談を交えて語っているなら、
その日本語の翻訳に違和感は生じない。
まるで日本人によるインド社会見聞録としか
読めないような見事な翻訳であれば、
それは一途な賞賛の対象となるでしょう。
日本文化や日本社会について、
外国人が、みずからの日本滞在の体験をもとに、
語っているとなると、
あえて下手なたどたどしい日本語にしないと、
語り手の存在と言葉が同調しないという
運命の皮肉。
とはいえこんなことを考えるのは
あるいは気にするのは私だけかもしれずないので、
それこそ気にしないでください。
内容は、日本人の変なところがあらためて、あるいは新鮮なかたちで
実感できたのですが、
同時に、イギリス人も相当ひねくれていて
変だということも
痛感できて、刺激的な読書体験をさせてもらいました。
あらためて、心から感謝します。